a Day in Our Life
正直、酔ってはいたけれど、意識は覚醒していた。 珍しく深酒をしてかなりの量を飲んだのに、それでも日常から抜け出せない自分が恨めしい。酒に溺れて現実から逃避したかったのにそれすら出来ない、と考えた徳井は、それではまるで福田のようだ、と自嘲気味に笑った。 「目ぇ覚めたか」 リビングに戻るとまだ帰ってはいなかった後藤が、所在なさげにキッチンに立っていた。グラスに注いだ水を渡されて、ぐい、と煽れば冷たい感覚が心地よく喉元を通って落ちた。 さっき、妙な絡み方をしたせいか、後藤は徳井と完全には目を合わせないままで、それに対して侘びの一つも入れようかとも思ったけれど、今更だろうと思い直して止めた。後藤の表情がやや翳っているのが少しだけ気になったけれど、それももう、どうでもいいと投げてしまった。 かたん、とグラスを戻せば、まるきり沈黙が落ちた。 意識はあると言っても飲みすぎたせいで、随分と体は重かった。のろのろと足を引き摺るように散漫な動作で定位置に腰を下ろせば、そのままの動作でごろりと寝転んでしまった。 「お前、そんなんしたらそのまま寝てまうぞ」 後藤の声が遠く聞こえたけれど、それには答えずに目を閉じてしまう。後藤の言う通り、このまま眠ってしまえればどんなにいいだろう、と思う。目が覚めたら何も変わらない日常で、そして自分は身支度を整えてまた、仕事に向かうのだ。 「なぁおい、徳井」 煩い、と目を開ければ随分と近くに後藤の顔があった。寝転ぶ徳井を覗き込む形で、じっと見据えるような後藤の視線が絡む。 「…後藤。今日は色々ありがとう。もう、ええわ」 言外にもう帰れ、とそんな意思を滲ませた徳井は、また今度何か奢るわ、と後藤に背中を向けた。その背中に向かって後藤は最後に一つ、小さな石を投げてみる。 「お前、川島と何かあったんか」 「…」 窓に向かって体を寄せて、厳かな甲冑に向き合う形で徳井は、後藤の言葉を聞く。酔ってはいたけど完全には意識は失ってはいなかったから、それでなくとも昨日の今日で、後藤にその話をした覚えはなかった。それ以前にその事の何をどう、他人に話して聞かせればいいのか、徳井には分からない。 ふわふわした足取りで後藤に引き摺られながら、ふと、後藤の足が止まったのをぼんやりと覚えている。ゴトウさん、と発せられた夜の街に似合いの低いテノールも。 「川島、だいぶお前のこと睨んどったで」 棘のある目線は想像に易かった。病室の前で自分に向けられた苛立たしい目線。鋭い眼差しが物言わず徳井を責めたのだ。それに対して自分はどうしたか、ただのろのろと逃げただけではなかったか。 返答はないけれど、徳井の背中がじわりと強張っていくのを後藤は黙って見ていた。試すような事がしたい訳じゃない、ましてや掻き回そうとしている訳でもない。けれど水面に静かに広がっていく波紋に導かれるように、ただその胸のざわめきに飲み込まれる形で、後藤はもう一つ、爆弾を投下した。 「お前は気付いとらんかったかも知れへんけど、さっき飲み屋帰りにばったり川島と会うてな。それが、」 珍しいことに福田を抱えとったで、あいつ。 背中に抱えた福田を大事そうに持ち帰った川島の姿を思い出す。その時、こちらも背に抱えた徳井の、分からないくらいの僅かな身じろぎも。 「…お前は福田をどうしたいねん」 ぽつん、と後藤は言葉を投げかける。もうずっと、一度でいいから聞いてみたかった。 あぁ、だからどうして現実は、逃げても逃げても追ってくるのだろう。徳井は耐え切れずに目を閉じた。
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そこそこ近場で飲んでたとはいえ、ほぼ同年代の男を負ぶって徒歩で帰るのは、少々無理があったかも知れない、と川島は思った。 完全に眠り込んでいる福田はそれでなくとも重かったから、起こさないように気を遣いながら、何度も背負い直す羽目になる。飲み屋での長い話を終えて、切り上げたところで田村はタクシーを呼ぼうとしてくれたのだけれど、そんなに遠い距離でもないから、とつい断ってしまった。あえて深追いをしなかった田村はもう一軒飲みに行くと言うのでその場で別れて、ゆっくりと歩き出す。 その途中、会いたくもない顔に遭遇してしまった事は、考えない事にした。幸い福田は全く気付いていない筈だし、あちらはあちらで渦中の徳井の意識の有無も定かではなかった。苦笑めいた、それでいて何かを見透かすような後藤の表情が少し気になったけれど、それも今は、考えない事にする。それよりも今、川島にとって大事なのは、背中の福田をいかに起こさずに無事に家まで連れて帰るかという事だった。 物思いに耽りながら歩いていたら、またずるり、と福田の体が倒れ込んでくる。一旦立ち止まってそっと背負い直せば、うぅん、と不明瞭な呟きが聞こえて、背中の福田が身じろぎをした。 「……かわしま?」 状況が理解出来ないらしい福田のぼんやりとした問いかけが、背中から降ってくる。ゆっくりと記憶を辿っているであろう福田の思考に合わせる様に、殊更ゆっくりと歩きながら、川島は言った。 「起きました?もう少しで家着きますから」 「…俺、眠ってもうたんか」 ともすればまたゆるゆると靄ががってしまいそうな思考を叱咤して、福田は考える。随分と心配性な川島が、病み上がりなのに飲んだ挙げ句、眠り込んでしまったらしい自分を怒るのではないかと予測したけれど、斜めからそっと見た川島は穏やかな顔をしていた。しばらく見入ってしまった福田は、ふと、唐突に状況を把握する。 「あっ、悪い。もう歩くから下ろしてくれてええよ、」 ずっと負ぶってくれとったんけ?重かったやろ、と下りようとする福田を、けれど川島はやんわりと制する。 「ホンマにもうちょっとやから、このままでええよ」 「…川島、」 にこり、と笑った川島は、もう一度軽く体勢を直して、それから黙って歩き始めた。そうされてしまえば無下に暴れるのも何だか面倒で、背中の福田もおとなしくなる。力を抜いて、体を預けた。 川島の歩く歩幅に合わせて、僅かに体が揺れる。ゆるゆると吹いてくる夜風に、背中の体温が妙に夢心地だった。髪からは洗いざらしのシャンプーの香り。昨日自分も使った同じ匂いだ、と気付いたら、何だか嬉しいとも切ないとも思えた。 鼻の頭がツンとする。嬉しくても切なくても泣きたくなるものなのだ、と福田は初めて身をもって知る。だからって今ここで泣くのは嫌だったから、黙って福田は目を閉じた。
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kaleidoscope【21】 2007/09/07 Toshimi Matsushita
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