a Day in Our Life


1999年01月16日(土) 016:薄氷



徳井はこの状況に微かに苛付きを感じていた。

なにやら手違いがあったらしく、楽屋で待つように言われて数十分。
大御所の機嫌ひとつで現場の空気が支配されるこの世界において、いくらM-1王者だイケメンだと持ち上げられようと、チュートリアルの存在は数多くいる若手芸人の一組でしかない。
このまま行けば間違いなくずれ込むであろうスケジュールを調整するため、マネージャーが飛び出していったのを横目に、徳井は本日三本目の煙草に火をつけた。

今、この楽屋に存在する音は、カチカチと時計の針が時を刻む音だけ。
今日に限って楽屋が静かなのは福田が黙っているせいだった。福田とは挨拶を交わして以来口をきいていない。
そんなに珍しいことではなかったが、いつもならたいてい沈黙に負けて福田から話しかけてくるのに、それがない。
まだ具合があまりよくないのだろうか、と伺うように盗み見れば、無理している様子もなく、むしろ顔色はいいくらいで。
福田はなにやら物思いに沈んでいるようだった。掌で銀色の鍵を転がしては溜息をつく。
落ち込んでいるというよりは戸惑っているような、何か信じられないことがあったときのような顔。
まさか。脳裏に横切った後輩を打ち消すことも出来ず、徳井はろくに吸っていない煙草をもみ消して立ち上がる。

「ふくだ」
徳井のほうから声をかけるのは久しぶりだった。ぎこちない笑みを浮かべ顔をあげた福田の、戸惑った目とぶつかる。
そんな福田の反応にさえ、徳井の心の奥底は震える。
福田はいつから徳井に対してこんな目をするようになったのだろう。どこか怯えと媚を含んだ眼差し。すぐに消えるけど、徳井以外には見せたことのない色。
何を。何を言おうとしたのだろう。伝えるべき言葉を忘れ、かわりに誤魔化すように手に取った財布。
「喉渇いたから飲み物買うてくるわ。なんか欲しいもんある?」
「あー、冷たいお茶頼んでもええ?」
「わかった。もし本番始まりそうになったら教えてな」
「うん。いってらっしゃい」
どこまでも表面的な日常会話に嫌気がさして、徳井は逃げるようにして楽屋を出た。
擦れ違ったときちらりと見えた銀色が、鍵だと気付いたのは硬貨を自販機に投入したときだった。
――あの鍵は何の鍵?
もやもやとしたものが胸の中に広がっていくのを無理やり打ち消して、徳井は溜息をついた。

***
**

小さな掌におさまる鍵は、ポケットに入れておいたら失くしそうだった。
それでも、この鍵は川島が福田のために作ってくれた居場所の象徴のような気がして。鞄ではなくもっと近いところに置いておきたかった。
だからといってキーホルダーを付ける気にはならなかったのだけど。
今は川島の厚意に甘えてしまっているが、いずれ返さなければいけないものなのだから、自分の匂いがつくような行為はしたくなかった。


予期せぬ空き時間。徳井と二人きりの楽屋。静寂に耐え切れず、福田は無意識にポケットから鍵を取り出す。
何の変哲もない、マンションの鍵。大きいわけでも小さいわけでも、ましてや変な色に塗られているわけでもないそれの感触を覚えるよう掌で転がす。
最初はひんやりしていたが弄っている内に福田から体温がうつって温まった。

徳井は何が言いたかったのだろう。自分は何がしたいのだろう。
川島から預かった鍵をまるで見せ付けるかのように手元で転がして。体温で温まった鍵に鈍く映る自分の表情は見えず。
徳井が物言いたげに福田の手元を見つめていたのを、福田は気付いていた。声をかけられたとき、自分は何を聞いて欲しかったのか。
目が合った瞬間、わからないくらいの間が空いて、徳井は何かを諦めたような表情を浮かべた。そのことに安堵と落胆の想いを味わう。
もしも聞かれていたら何を答えればいいのか。福田にはわからなかった。



***



kaleidoscope【16】
2007/09/03 Kanata Akakura

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