a Day in Our Life
何年か振りの朝食というものを取り、健康的に寛いでいるうちに、出掛ける時間が迫る。
「福田さん今日、仕事込んでましたよね。夜は遅なりますか?俺は今日は打ち合わせだけなんで、そない遅ならんと思うんですけど」 「どうやろ…分からへん。もしかしたら12時回る事もあるんかも」 最後の仕事がロケだったから、時間が読めなかった。それを聞いた川島がふぅん、と思案顔になる。思いついてさっと立ち上がる。棚に置かれた小物入れを探って、目当てのものを取り出した。 「これ、合鍵です。持っとって下さい」 「…」 もう一本スペアあったん思い出して。と笑う川島に、福田は一瞬、押し黙る。素直に受け取っていいものかどうか、判断に困ったのだ。現時点で、随分川島に世話をかけている自覚はある。合鍵まで貰ってしまったら、もっと甘えてしまう事になりはしないか。 変なところで生真面目な福田の表情を見て取って、川島はゆっくりと表情を和らげる。福田の手を取った。 「持っとって欲しいんです」 それはむしろ、川島の熱望であり、単なる我侭でもあった。エゴとも言えたかも知れない。福田に合鍵を持たせて、まるで既成事実を作る。福田がここに戻って来ることを約束したかった。 「…ありがとう。ほんなら、預かっとく」 貰う、とは決して言わなかった。それでも川島は福田の手のひらに合鍵をぎゅっと握らせ、にこりと笑う。 「待ってますから、遅なっても気にせんと帰って来て下さいね」
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福田が出て行ったドアが閉まると、部屋の中は急に静かになった。目を向ければテーブルには朝食の後そのままに、福田の使った食器がまだ残っていて、そんな些細なものがくすぐったいような、不思議な気持ちを沸き起こす。それらをシンクに運んで、手早く洗いながら、ぼんやりと福田を思った。 マンションを出て、そろそろ駅に近づいている頃だろうか。切符を買って、電車に乗る。この時間の車内は混んでいるから座れないかも知れない。猫背気味の背中を丸めて、手すりに捕まりながら、窓からの景色を眺める姿を想像した。 その華奢な背中が、更に、昨晩見た彼の姿をゆっくりと呼び戻す。
夜中に魘された彼は、徳井くん、と何度も呼んだ。 眉間に皺を寄せて、苦しそうに何度も、何度も呟く。それはひどく切なく、苦しげで、聞いている川島の胸が、文字通り押し潰されそうになるほど。切羽詰るその声に、焦がれる思いが湧き上がる。藻掻く彼を掬い上げてやりたくて、少し乱暴に肩を揺さぶれば、ゆるゆると悪夢の淵から戻ってきた彼の目から、追いかけるように涙が溢れた。 呆然と川島を見た福田には、川島の姿が見えていただろうか。 それでも、川島は精一杯手を伸ばした。小刻みに上下する背中をゆっくりと擦る。少しずつ落ち着いてくる呼吸に合わせて、ゆっくりと、何度も。 「大丈夫ですよ」 俺は、ここにいますから、と言った。福田を安心させる為ではない、間違いのない本心だった。 ここにいる俺に気が付いて欲しい。あなたが好きだから、あなたを救いたいから。 湧き上がる思いは溢れて止まらず、きっと、今まで言えずに溜めていた感情が一気に噴き出したのだと思った。 今、確かに手の中にある福田を、更にぎゅっと抱き締める。すっぽりと収まる薄い体は、悪夢に魘されたせいか、しっとりと汗ばんでいた。その熱に浮かされる自分を自覚する。眩暈がしそうだった。ゆっくりと体の力を抜いていく福田の手が、やがて背中に回ってくる。縋るように体を寄せてくる福田を、心の底から愛しいと思った。
「…アカンわ、ホンマに」 色々、駄目だと思った。歯止めが利かなくなっている事も、それがだだ漏れている事も。 福田を追い詰めたくはない、と思う。 自分のしている事が、福田にとって重荷でなければいいと思う。例えエゴだと知れても、福田のいいようにしてやりたい。見返りを全く求めないと言えば嘘になるけれど、この気持ちすらが福田にとってプレッシャーなら、秘めたままでもいい、と思う。 その人がいとおしくて、大切で。こんなに澄みやかな気持ちは初めてだった。
「重症や」 反面で、こんなにも狂おしいほど何かを欲しい、と思ったのも川島は、初めての事だった。
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kaleidoscope【15】 2007/09/03 Toshimi Matsushita
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