a Day in Our Life


1999年01月11日(月) 011:揺籃


 楽屋のドアを開けると、先に来ていたらしい徳井と目が合った。

 「…おはよう、徳井くん。昨日はすまんかったな」
 その謝罪は病院騒ぎになった事とも、打ち合わせに穴を開けた事とも取れた。曖昧なまま投げかけたそれを、徳井も曖昧に、黙って受け取る。
 「そんなん、体の事やししゃぁないやろ。もうええんけ?」
 それでなくとも貧弱な福田の身体が、更に痩せたように見えるのは徳井の錯覚だっただろうか。疲れたような目が、血の気の薄い頬が、そう思わせるのだろうか。それよりも徳井自身がそう、思いたかっただけだろうか。
 目の前の福田を見る。僅かに感じるこの違和感は何だろう、と思った。
 「薬も飲んだし一晩安静にしとったから、もう大丈夫」
 何をもって大丈夫なのか、と深く考える事は止めた。福田自身、何が良いのか悪いのかよく分からない。恐らくそれは、身体以上に心が混乱しているからだった。
 「川島が色々世話してくれたんやってな」
 「あ、うん、そうやねん。たまたまやってんけど、乗りかかった船や言うて昨日も結局、一晩付いとってくれて」
 その混乱の元凶の名前を出されてドキリとする。浮ついた気分のまま、今さっきもここまで送ってくれたのだ、とありのままを告げた福田は、一瞬徳井の目が揺らいだのを見逃した。夜の海のように静かに揺れた徳井の黒目は、漆黒の闇のように昏く、深く。光が届かないのだ。闇夜の下で目を凝らしても相手の顔が分からないから、今も、目の前の福田の影形しか見えない。
 「…そーか、今度会うたら礼言わなアカンな」
 まぁ何にせよ良くなってよかったわ、と徳井はもう、話を切り上げる。病み上がりやねんから、今日も無理はすんなよ、と通り一遍の優しい言葉を掛けながら、もう福田を見ていなかった。
 そんなのももう、何だか慣れっこになってしまっていて。
 福田は無意識に微笑う。それは自嘲にも似ていた。たぶん今、徳井が一番自分を見るのは漫才をしている時じゃないかと思った。非現実と現実が裏返る感覚。何でもない動作で相手と対峙する事が出来ない。自然な動作を不自然に感じ始めたのは、果たしていつからだったか。
 それは恐らく、幼馴染からパートナーに変わった瞬間に、自分達は、何かを失ってしまったのだ。
 相手が自分を見ないと分かっている時にだけ、その顔を見る事が出来る。もう福田に背を向けた徳井の横顔を、福田は見つめた。険悪ではない、関係は至って友好。けれど核心に触れない、腫れ物に触り合うような自分達の関係は、健全とは言い難かった。
 どうしてこうなってしまったのか。そしてもう、戻る事はないのだろうか。
 それは、はっとする喪失感だった。絶望にも似た何かが福田を襲う。足元からぞわぞわと這い上がる何かが、福田を震えさせた。堪らず小刻みに揺れる手が、お守り代わりのブレスレットに触れた瞬間、反射的に指は離れた。
 代わりに俺の手を握って下さい、と言った川島の横顔を思い出す。
 照れたのかほの赤く染まった頬の色。冗談を言っているのではないと分かった。本気でそう言ってくれた、川島の手のひらの温もり。
 今、この瞬間に。川島に手を握って欲しい、と福田は強く感じて、そう思った自分にひどく驚いた。







 その日の仕事を終えて、ホテルに戻った。病み上がりの身体を心配したけれど、思ったより調子が良くて内心で安心をする。食欲はまだあまりないけれど、腹痛は消えたし、気分も悪くはなかった。
 一日振りの部屋に入ると、毎日きちんと掃除をされた室内に、いくつかの福田の荷物だけが余所者のように置かれている。直線距離でベッドに近づくとそのままばたりと倒れ込む。清潔なシーツの感触が気持ちよくて目を閉じる。しばらくして開けた視界には、変わらないホテルの天井があった。
 うちに来ませんか、と言った川島の言葉を思い出した。
 正確には今日一日、何度も再生したそれを、また引っ張り出して来たのだった。言われた瞬間は悪い冗談だと思ったし、およそ現実感のない話だと思ったけれど、時間が経つにつれ、冗談ではなく何度もその言葉を再生する自分がいた。
 福田自身、どうしたいのか分からないでいた。
 川島の言葉は嬉しかった。急に優しくなった川島は、けれど自然な変化で、まるで今までもいつでもそうする準備は出来たかのように振舞ったから、福田もつい、その優しさに甘えてしまった。そんな自分を不思議に思うけれど、反面で嬉しかった自分も自覚している。
 優しくされるのは嬉しい。その言葉が、態度が、嘘ではないと分かれば、尚更。
 きっと自分は他人のぬくもりに飢えているのだ。本当は欲しいのに、否定されるのが怖くて欲しいとは言えなかった。だから、本当は。優しくされたい。甘えたい、縋りたい。
 この揺れは何だろう、と福田は思う。苦しい時に側にいてくれたから?それとも、自分は本当に川島を。
 ぶるり、と身震いをする。エアコンのよく効いた室内は、けれど一人の体温だけでは少し寒かった。ひどく情緒不安定な自分を自覚しながら、無性に寂しいと思った。
 パンツのポケットから携帯電話を取り出した。そういえば朝、楽屋前で別れてからまだ、礼の一つも言えてない。川島のスケジュールは知らなかったから、メールの方が無難だっただろうけれど、福田の指は、通話ボタンに向かった。
 『福田さん?今どこですか?仕事終わったんですか?』
 数回のコールで直ぐに繋がった電波の向こう、福田が何か言う前に、川島が早口でそう問うて来る。体調どうでした?無理してませんか?と質問攻めにする川島は、昨日の続きのまま優しい声をしていた。
 「…川島」
 それらの質問の答えを前に、福田の息が詰まる。ありがとう、と言うより先に、請うような想いがあった。
 「俺、まだお前に甘えてもええ…?」
 一人のホテルは嫌だ、と思った。朝、徳井の顔を見た時以上に、もっと体内に溜まる何かが、ここにはあった。それをストレスと呼ぶことも出来た。色々もう、限界だった。
 『……今すぐ迎えに行きます』
 チェックアウトしといて下さい、と早口でそう言った川島は、もっと性急に電話を切った。



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kaleidoscope【11】
2007/08/31 Toshimi Matsushita

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