a Day in Our Life


1999年01月09日(土) 009:臨界点



 その温もりと重さは、福田が確かに生きていると感じさせた。

 目が覚めた時、一瞬、死んだのかと思った。暗がりの中に覚醒して、まるで自分が唯一人のような気がして。遅れてきた触覚が側にいる人間の重みを伝えて、視線を向けた時にそれが果たして誰だったか、福田は咄嗟に判断し兼ねた。
 黒い髪、がっちりとした肩幅が狭いベッドに窮屈な体勢で収まっていた。小さな福田の呟きでも直ぐに目を覚ました川島は、初め、切れ長の二重をとろりと動かした後、文字通りに飛び起きた。
 川島だ、と頭では分かっていたのに、その時の福田は何を思ったか。
 落ち着いて会話を交わしながら、心はぼんやりとその場に佇む。薬のせいか、頭に靄がかかったようにその動きが鈍かった。おぼろげな記憶の中で、川島が自分を助けてくれたのだと思い出した。あの時、縋るように凭れた川島の肩の質感や、背中を撫でてくれた手のひらの感覚。心底心配してくれていた、けれど優しかった声。

 徳井がこの場にいる筈がないのに。

 だってわざわざ知らせなかったのだ。心配をかけまいとして、先に不実を働いたのは自分なのだ。迷惑をかけたくなくて、自分一人で処理をしようとして、結果このざまだった。それでいて徳井に来て欲しい、だなんて、浅ましい自分に眩暈がしそうだった。
 もはや癖のような動作で、布団の下、そっと左手首を撫でれば僅かな痛み。川島の目を盗んでちらりと目をやれば、線のような赤い痕になっていた。痛みに我を忘れて、擦れるほどに握り締めていたらしい。どうして自分は、そんなにも身勝手で傲慢な。
 「川島、ずっと付いていてくれたん」
 視界に認めた時計の針は、随分深い時間を指していたから。襲い来る痛みに耐えながらも、川島や田村に迷惑がかかる事だけは拒否した筈だったから、仕事を終えて、わざわざ様子を見に来てくれたのだろうと知れた。それが何だかいつもの川島らしくなくて、それでいてごくごく自然にその優しさを受け止める自分がいる。
 「今さら帰れなんて言わんとって下さいね。大事を取って入院って形を取ったけど、明日にはもう退院出来るそうですから、乗りかかった船やし、今日はこのまま付いてますよ」
 側にいるから大丈夫、と言われた気がした。
 この優しさは何だろう、と思う。川島が優しい。ストレートな気持ちが痛いくらいだった。
 気が付いた頃には自分達はそんな風に、素直に行動する事が出来なくなっていたのかも知れない。福田は思う。
 自分だけではない、それは徳井も恐らくそうだった。本音を秘めて、波風が立たないように、何より平穏を求めた。そうしている限りは自分達は永遠なのだと、本気で信じていたのかも知れない。
 お互いから逃げて、誤魔化して、虚構ばかりを積み重ねて、それでも離れる事は出来なかったから。
 でも、それももう、疲れてしまった、のかも知れない。
 「ずっと居りますから、安心してもう少し寝とって下さい」
 川島の微笑い顔。いつもなら突っかかってきたり、からかわれたり、だから川島の笑い顔を間近で見るのは初めてに近かった。ああ、コイツはこんな風に笑うんだ、と思う。濃い眉に目鼻立ちのくっきりとした、柔らかな笑い顔はほんの少しだけ徳井に似ていた。
 「ありがとう、…川島」
 お願いがあるんやけど、と言った。こんなに心細くて、気持ちが心許なくて、こんなにもぐらぐらするのは、自分が病人だからだ、と思う。だから姑息にも川島に縋っているのだ、と言い訳をする。
 「何ですか」
 今、福田が頼めば人だって殺しそうな勢いの川島は、そっと顔を近づける。福田の願いを取り零す事無く聞いて、叶えてやる為に。
 「手を握っとって」
 音もなく布団から、左手を差し出した。溶けるように笑いを深めた川島は、お安い御用です、とその手を包み込む。骨太な手のひらに包み込まれた瞬間、するりと川島の体温が流れ込んで来る。冷えた体にはその熱さが心地良かった。
 「さ、もう寝て下さい」
 空いたほうの手で、さらりと額を撫でられる。張り付いた前髪を掬ってくれる。静かな川島の声に導かれて、福田は再び目を閉じた。
 閉じた瞼の裏、祈るように、思った。
 なぁ、徳井くん。もう、ええかなぁ…。


 目を閉じると断たれた視界の先、繋いだ手の感覚ばかりに支配された。
 川島の大きな手のひらと、その血液のあたたかさ。それだけが今、福田の全てだった。



***



kaleidoscope【9】
2007/08/29 Toshimi Matsushita

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