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2005年02月16日(水) 『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(2回目)

チケットが全然取れなくて諦めてた舞台、
前回は友人が手に入れてきてくれて観た。
今回は、偶然見たチケット掲示板に
約50分後に開演の回を¥2,000値引で譲ると。
とにかくメルアドだけメモして飛び出して、
電車の中からメールしてみたらOKと返事。

演出にはメチャクチャ文句たれた舞台だけど、
気になってもう一度観たくて、でもオークションの
高騰する様子を見つつ すっかり諦めていたので、
電車の中で何度もメールやり取りしながら、
何だか、どこかで誰かに騙されてるような気分。
いろいろと考えていたはずのことも忘れてて、
ストンと真っ白な状態で客席に座って、
二度目の舞台、観てきました。疲れもあって
あまり考えられていないので、局所的感想です。


『幻の心もそぞろ狂おしのわれら将門』

場所:シアターコクーンB列20番
時間:1幕80分、2幕65分
作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄
出演:堤真一、段田安則、木村佳乃、中嶋朋子、高橋洋ほか

>彼(三郎)は、もはや逃げ延びること適わじとなった最後に、
>「将門」を永遠に殺さないため=生きているという伝説を
>口の端に上らせ、敵にも民衆にも忘れさせないために、
>ひたすらに「将門」を探し求める男一人を逃げ延びさせる。
>その男は、肉体は将門自身であるが故に、三郎が生涯
>愛し憎み続けた男は、体も生きていくことができる。
>そのエンディングが、滅びの美学であるとは思えない。

前回こんな感想を書きました。
今回も あらすじは同じように感じたのですが、
やはり三郎に近い視点で観ていったところ、
将門が「生きていく」ことがどれほど「闇」なのか、
それを ものすごく強く感じました。将門自身が
自身が将門だと気づかず将門を追い求めるというのは、
目的を達成することがありえない、ある意味 空しい生。

生きているのに、死者となって伝説化した将門。
実際には誰が埋められていても誰も気にしない首塚。
伝説を広げ、将門首塚を増やしながらさまよう将門。
誰の信じているものも、実体などありはしない。
それでも、信じることに意味なんてあるのか?

三郎は、自身の信仰の対象である将門を
自分が死んでもなお信じ続けるためだけに、
その「信じ続けている」という、
何も生み出さない無意味なもののためにだけ
将門を生き永らえさせたんだと感じてしまいました。
その信仰の絶望的な強さに全く共感できず、逆に
強く否定しながらも、ある種の感動を覚えていました。

だから、浅間山荘なのかと、少しだけ理解。
蜷川さんにとっては(脚本に鉄球などの指定があるなら、
清水邦夫さんにとっては)赤軍事件がこう見えたのかも。
でもそれが、歴史物語として共感するほど過去でもなく
自身のものとして実感するほど現在でもない私には、
やはり、せっかく普遍性を持たせられるであろう脚本を
ただ1つの具体例に結び付ける演出は納得できないのでした。



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