中国という重い扉 - 2005年04月22日(金) 例えば、僕の娘を暴行した男がいて、そのせいで娘が自ら命を絶ったとしよう。 その男は、刑期を終えて社会復帰し、僕のところに贖罪の意味として毎月いくばくかのお金を送ってきたとする。そして生活に困っていた僕は、そのお金に手をつけて生活してきた。 では、ここで質問。 僕は、お金を貰っているからといって、その男を好きになれるだろうか? はっきり言って、テレビの映像で観る、暴徒化した反日デモ(というより、「暴動」ですね)には、僕は憤りを感じるし、ああいう連中は、みんなまとめて「修正」しろ!とか思ってしまう。それこそ、あの国には文化大革命の伝統があるのだから。あの映像を観ているときのリアルな感情というのは、あの場に戦車かなんかが踏み込んでいって、連中をギシギシと踏み潰しても快哉を叫びたくなるくらいの不穏なものだ。 ああいうのはバカげているし、中国の「反日教育」にも、勘弁してもらいたい、と切実に思う。いつまで謝り続ければ終わるのか?とうんざりもする。しかし、そういうのが「侵略された側」にも通じる話なのかどうかは、正直よくわからない。 まあ、中国が日本を嫌うのは当たり前のことで、内戦や小規模な国境紛争を除けば、中国にとっての日本は、もっとも記憶に新しい、自分たちの土地に踏み込んできた「交戦国」なのだし、「お金を出しているからといって、偉そうな態度をとる人」というのは、出してもらっている側からすれば、あまり好感が持てるものではあるまい。 ただ、好き嫌いはさておき、ああいう暴動は許せないし、あってはならないことだろう。いくら嫌いなヤツだって、殴れば罰せられるのが「法治」というものだ。「嫌いだという感情」が理由で罰せられるとすれば、それはそれで恐ろしいことなのだが。 しかしながら、現状について考えると「今の日本人はどうするべきか?」という質問に対する、僕の答えというのはなかなか出てこない。あれだけ反日教育を受けてきた人たちに、「日本は悪くない!」といくら叫んでみたところで即座に届くとは考えにくいし、相手を批判したところで、かえって泥仕合になるだけのことだろう。「すぐに相互理解を深め、仲良くする」なんてことは、夢物語だとしか思えない。もっとも、中国の人々の中には、個人的な感情や場の空気に溺れず、「日本は嫌いだが、その良いところはしっかり盗もう」と冷静に構えている人もたくさんいるようだが。 僕は「日本が嫌われている」という状況は、この何年かで急に変わるものではないと思っている。蓄積された感情というのは、そう簡単に払拭できるものではなく、宇宙人でも攻めてきて過去が強制リセットでもされないかぎり、一朝一夕にはどうしようもないのだろう。 「嫌われている」のは、しょうがない。たぶん、短期的には「手荒なことをしないように国際社会を味方につけて圧力をかけていく」しかないのだろう。そして、それと同時に、長い目でみて、こちらからドアを叩き続けるしかないという気がする。中国というのは、これからの日本にとって、無視できる存在ではありえない。 でもなあ、どんなふうにノックしたらいいのか、それすらも現状ではよくわからなくて、不安になる一方。 「そんなドア、力づくで開けてやる!」というような世の中に、ならなければいいのだけれども。 ...
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