「容赦」は人のためならず。 - 2005年01月07日(金) あけましておめでとうございます、とか今さら。 以前ラジオのインタビュー番組で棋士(将棋を指すことを生業としている人)が、こんなことを言っていた。 【「いや、羽生さんとかは本当に強いんですけど、あれだけタイトルを独占するには、実力だけじゃなくて、プラスアルファが必要になるんですよ」 インタビュアー:そのプラスアルファって、何ですか? 「うーん、うまく言葉にできないんですが、相手に『この人になら負けてもいい』って思わせること、ですかね。それは、『信頼』と言い換えてもいいんですけど。将棋というのは、相手の王を詰めないかぎり、『参った』と相手が言ってくれない限り終わらないゲームですから。 将棋の終盤というのは、もう残り時間も何分とかいうレベルになるし、実際のところ、絶対有利な局面でも、一手間違えば形勢逆転、なんてことも起こりえるわけですよ。いくら将棋指しだって、人間ですから。 でも、日頃から敬意を払われている人や愛されている人というのは、そういう局面になったときに、対戦相手のほうから早めに「参りました」と折れてくれるんです。逆に、日頃憎まれたり、『こいつになら勝てる』とナメられたりしている人は、対戦相手もなかなか『勝負を投げて』くれないわけです。そうすると、おのずから『奇跡の逆転劇』というのが起こってしまう可能性も出てくるんですよ。そういうものの蓄積が、最終的に勝負を分ける重要なファクターになってくるんじゃないかなあ。もちろん、実力がないと、無理ですけど。】 将棋の世界と一般社会は違う、と言われるかもしれないが、僕はこのインタビューに考えさせられるところが多かった。「勝負というのは、相手を徹底的に打ちのめさなければならない」という考え方が普通になっているような気がしていたけれど、実は、本当に高いレベルでは、そういう「手心」というか、「間合い」みたいなものだって大事なのだ。 いろんなサイトを読んでいると、「容赦のないサイト」が目に入ってくる。 「書くべきではないこと」を鬼の首を取ったように書いて、「これが真実だ!」と叫んでいる人もいる。 でもね、僕はそういうのって、やっぱり品がないと思うのだ。愚かな決め付けで誰かを傷つけるのは、やっている本人には楽しいことなのかもしれないが、僕はそういうのは嫌だ。「知っている秘密」を訳知り顔で大声で話してアクセスアップを果たすくらいなら、「知らないふり」をしていたいと思う。 誰かを救うための真実ならともかく、誰かを傷つけるためだけの真実を積み重ねていくというのは、長い目でみれば、けっしてプラスにならない、そうであってもらいたい。 WEB上では、饒舌さだけが尊ばれる。 でもね、「沈黙」というのもまた、ひとつの「言葉」なのだよ。 まだまだ道は遠いけれど、誰かを徹底的に打ちのめす人間であるより、誰かに「負けました」とキチンと頭を下げたり、勝ちを譲ってもらえるような人になりたい。 自分も相手も焼け野原になった挙句に勝っても、何の意味もないのだから。 ...
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