「距離感」というようなもの。 - 2004年11月26日(金) テレビの企画などで、「有名ミュージシャンが、あなたひとりの前で歌ってくれます」だとか、懸賞で「抽選に当たった、20名の前だけでのライブ!」とかいうのがあるのだが、僕はそういうのを目にするたびに、「いくら好きなアーティストでも、こういうシチュエーションで聴くのは辛いんじゃないかな」と、つい考えてしまう。もしそんな状況になったら、たぶん、観客としては、ものすごく嬉しそうな表情をしたり、幸せそうな気分になったりしなければならないだろうから。 そして、「一生懸命、楽しそうに、嬉しそうにしなければならない」という強迫観念めいたものは、たぶん僕の顔を引きつらせ、曲そのものよりも「今、自分は楽しそうな表情になっているのだろうか?」というような自問自答ばかり繰り返していることになる。 仕事で実習の学生と一緒に行動することがある。何も知らない学生に細々としたことを教えるというのは、けっこう手間がかかる割には自分に返ってくるものが少ない仕事だ。とはいえ、偉い先生と部屋に二人っきりで仕事、というような状況で、彼らが仕事を見学に来ていたりすると、非常に気が楽になるのも事実だ。二人だと会話の糸口が見つからなかったり、張り詰めていて息苦しかったりする空気も、学生というエッセンスが混じることによって、けっこう和らいだりするのだ。ときどき質問をして「こんなことも知らないのかまったく!なんて軽くいじってみるのも(上の先生によっては、かえって緊張感を高めるようないじりかたをする人もいて、それはそれで困るのだけど)アクセントになったりするし。 もちろん僕とその上司の仲が悪いわけではなくて、やっぱり上司と部下という関係には、一定の距離感というのが必要で、そういう「馴れ馴れしくしすぎてはならないけど、よそよそしくなりすぎてもいけない」という距離をキープするのは、一対一だとなんだか僕にはひどく難しく思える。 中学校くらいのとき、いつも一緒に遊んでいるグループの中で、そのうちの誰かと二人きりになると、仲がいいはずなのに、なぜか二人になると何を喋ったらいいかわからなくなってしまう、そんな感じ。実は、ふだんはあまり喋らないような「目立たない人」がひとり欠けてしまっただけで、場の雰囲気がガラッと変わってしまいことは少なくない。 よく行く店で「常連」という扱いをされるのもイヤだ。定食屋で「これ、サービスね」ということで、ちょっとした料理が出てきたりすれば、そういう「善意」に対しては、やっぱりこちらも「善意」で返さなくてはなあ、なんて思し、そういうのって、かなりプレッシャーなのだ。美味しくもない料理でも美味しそうに食べなければならないし、たとえ美味しかったとしても、お愛想のひとつも考えなくてはならないのは、非常に辛い。世間話などされても、非常に困る。床屋にしても、「なるべく、早く、喋りかけられない」というのを重視しているくらいだ。 まあ、僕の場合は平均より「遠め」が、他人との心地よい距離なんだろうと思うけれど、サイトとかをやっていると、ちょっと困惑することが多いのも事実。相手が悪いというのではなくて、そういうギャップみたいなものは、文章で伝えるのは難しいものみたいだから。 とはいえ、無視されると寂しいし、まったくもって自分とか他人というのは、よくわからないものだなあ、と思う。要するに、「自分から声をかける勇気はないけれど、向こうのほうから声をかけてくるような女の子じゃダメ」というような、出口のない堂々巡りを繰り返している、というわけだ。 こんなことをわざわざ書いて発信しているのには、やはりそれなりの「理由」があるには違いないのだけれど、こんなの、どう反応していいか読んだ人もわからないよね。 ...
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