「話せばわかる」という理想と「話が通じない」という現実 - 2004年11月04日(木) 「話せばわかる」と本当に思っている人というのは、現代の日本にどのくらいいるのだろうか?いや、少なくとも僕は高校生くらいまでは「正しいことを正しい方法で説明すれば、きっと誰でもわかってくれるはず」だと信じていた。でも、30過ぎてみると、それは「幻想」なんだろうなあ、と思う。 そう、「核の仰止力」なんてバカバカしい、と言いつつも、実際その「バカバカしさ」に実効力がないとは言い切れない。香田さんの訃報とネットで流されているという映像の話を聞いて(僕はその映像を見ていないし、見ない。テロリストが見せしめに録った映像を見ること自体が相手の思う壺だろうし、僕が香田さんや遺族だったら、そんな姿を他人に見られたくないだろうと考えるから)、ちらっと、「そんなテロリストたちなんか、核兵器で跡形もなく抹殺してしまえ」と考えた。 もちろん、そのあとで、「いや、核なんか使ったら地球環境が…」と思いなおし、その後で、「結局、テロリストの命よりも自分が生きるのに必要な地球環境優先だよな…」と自嘲した。 「話せばわかる」という言葉には、確かに真実が含まれている。 それは、話をすることによって、「話が通じる相手かどうかがわかる」ということだ。要するに、「話す意味がある相手」と「話すだけ時間のムダになる相手」という2グループに分けるのには有効である、ということ。 もちろんこの2グループにはグレーゾーンが存在しているし、ひょっとしたら、どんな相手だって、時間をかけてじっくり話し合えば「落としどころ」はあるのかもしれない。でも、「この人は根っからの悪党じゃないんです!」と言われても、「根っこまで掘らないと悪党じゃないことが証明できないのなら、それはもう悪党の範疇だろ?」という気もする。 たぶん、僕が子供のころの日本人は、みんな建前だけでも「話せばわかる」と言っていたような記憶がある。しかし、今となっては、「話すだけムダな相手がいる」ということをほとんどの人が悟っているのではないか。 そして、自分が傷つけられる前に、なんとかパトリオットミサイルで相手を迎撃しようと構えているのだ。 もちろん「話せばわかる」相手もいるはずだ。 でも、現実的には普通の付き合いの範囲というのは、「話さなくてもわかる」というレベルに留まることが多いし、それでもあまり困ったことにはならない。そもそも「話してみる」ことすらないから、「話せばわかる」かどうかすら、よくわからなくなってもきているのだ。 ひょっとしたら、「話せばわかる」と信じきれる人間が、最後には勝つのかもしれない。坂本竜馬とか、ガンジーみたいな。 それにしても、人間の声の大きさや脳の重さの進化に比べて、僕たちが「話すことができる人」の範囲は、あまりに広がりすぎてしまっている。 そして、「どうして話が通じないんだ…」と考え込んでも、その答えは誰も教えてはくれない。 こういう「話の通じない人」とうまくやっていく唯一の手段があるとすれば、「相互不干渉」しかないのかもしれない。 それをみんなは「退化」だと言うのだけれど。 ...
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