南十字星を見上げながら。 - 2004年08月10日(火) 空を見上げたら、そこには満天の星空が広がっていた。 天の川もハッキリと見える、まるでプラネタリウムのような星空。 「あれが南十字星ですよ」とガイドさんが懐中電灯で照らした先に、その4つの星はあった。 それは、僕がさっきまで空を見上げながら「あれが南十字星かな」と、なんとなく思っていたのと同じ星たちだった。 たぶん、僕が生まれて日常を過ごしている国にいるかぎり、一生見ることができない星たち。それが今、僕の頭の上に輝いている。 30も過ぎたのに「自分は何のために生きているんだろう」なんて、ときどき発作のように浮かんでくる考えがある。もともとそんなに楽しいことばかりの人生じゃなかったが、子供の頃の楽しいこと:楽しくないこと=1:1とするならば、今は確実に1:20くらいにはなっている。そして、自分がはたして何かの役に立っているのかどうか、わからなくなって、その無力感に覆われてしまうことがある。 でも、その星たちを見ながら、僕はこんなことを考えた。 「こうして、今まで見ることができなかった星を観て、『あっ!南十字星だ!』という新しい知識を自分に投げ込んでいくのは、なんだかとてもすばらしいことだなあ」って。 「それが何の役に立つのか?」と問われれば、おそらく「それは何の役にも立たない」と答えるしかない。 でも、僕はそうやって、自分という大きな空っぽの貯金箱に、チャリン、という軽やかな音とともにコインを投げ込んでいく作業が、たまらなく好きなのだと思う。見たこともないものを見たり、知らないことを知るということは、僕にとってのひとつの「生きがい」なのだ。 そもそも、カエサルだって始皇帝だって、南十字星を観たことはないんだからさ。 そうやって、ただ貯めこんだコインの重さを確認しては喜びに浸る人生というのは、けっこう悪くない。 そして、ときどき中身を誰かに見せびらかしたくなったら、こうしてちょっとだけ貯金箱を透明にしてみせる。 「体験」というのは、何者にも代えがたい「知識」なのだろう。 僕の貯金箱は、まだまだたくさんコインが入りそうだな、なんてことを考えていたら、そういう人生って、意外と悪くないんじゃないかな、という気もするのだ。 まあ、その「感動」のあと僕がやったことは、「南斗六聖拳」のメンバーを全員思い出すことだったのだけど。 シン、レイ、サウザー、シュウ、ユリア、うーん、あとひとりが思い出せん…とか、かなり真剣に。 ...
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