マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

「コンプレックス」とか「トラウマ」とか。 - 2004年07月23日(金)

 「コンプレックスはありますか?」
 そんなの、あるに決まっているじゃないか。
 人間なんて、コンプレックスの塊が服を着て歩いているようなものだよ、本質的にはさ。
 僕自身でいえば、もっと背が高かったらなあ…とか、もっとカッコよかったらなあ…とかいう、比較的スタンダードタイプのコンプレックスもあるし、「医者なんてご立派ですねえ」なんて言われても、出身大学とかにだって「もうちょっといい大学(というか、具体的には東大とかだな)に入れていれば、もっと良かったのかもしれないなあ」なんて思うこともある。
 しかし、こういうのは仮に東大医学部に入った人間でも、自分が東大医学部で一番でないことに苦悩するかもしれないし、東大医学部の首席卒業でも、自分の先輩や後輩の優秀な人間に嫉妬するのかもしれない。まあ、こういうのはキリがないこと、ではあるのだ。
 もちろん、こんなところには書けないような、思い出したくないものだってあるけれど。

 ところで、僕はこの「コンプレックス」という言葉と「トラウマ」という言葉が大嫌いだ。なぜかというと、これらの言葉は、単に「自分は特別な人間だ」と思い込みたいだけの人間のエクスキューズにあまりに濫用され続けているから。
 「学歴コンプレックス」とか「背が低いことへのコンプレックス」が現実に存在するのは、言うまでもないことだ。でも、世の中には「背が低いから、人を殺した」とかいうような(これはあまりに極論?)意味不明の「コンプレックス」「トラウマ」がすべての要因、みたいな理論が多すぎる。
 「父親が女をつくって逃げたから、男性不信になった」「親に愛されなかったから非行に走った」これは、理屈としては通っているよ、確かに。
 でも、子供の頃の家庭環境が恵まれていなくても幸せになった人はたくさんいるし、犯罪行為に走らない人のほうが、むしろ多数派なのだ。
 そして、彼らは自分の不幸を「コンプレックス」とか「トラウマ」なんて言葉で理由付けしようとするけれど、そのコンプレックスとやらがわかっているのなら、どうしてそんなに簡単に流されてしまうのだろうか?
 「そんなに簡単に克服できるものではない」というのはわかる。でも、最初から「自分に言い訳をして、ラクしているだけなんじゃないの?」というような「コンプレックス人格」や「トラウマ人格」を持つ人というのは、けっして少なくない。
 彼らは「コンプレックスに操られている」と言いながら、実際は、そのコンプレックスに「依存」しているだけなのだ。
 「お腹が空いたけど、金がなかったからパンを盗んだ」
 こういうのはよくわかる。僕でもそうするだろうな、と思う。
 「人を殺す体験がしてみたかった」
 こういうのに対して、「家庭環境」とかを持ち出して「幼少時のトラウマ」とか言い出す人には、ほとほと呆れ返る。そこまで理由付けしてあげる義理なんてないだろう?そんな衝動を心の中だけにとどめておけない人間に、生きる資格があるのか?
 
 僕は「コンプレックスを持っている人」というのは、むしろ人間らしいと思う。
 ドラマの「白い巨塔」を観ていて、里見先生はフィクションだが、財前五郎には、デフォルメされたリアルを感じる。彼は生々しいコンプレックスの塊だったが、それを自分で克服しようとはしていたのだ。その方法自体の是非はともかくとして。

 「コンプレックス」や「トラウマ」を持っていることは、何一つ恥ずかしいことじゃない。でも、それを言い訳の道具にするのは、ものすごく恥ずかしいことだと思う。
 
 「コンプレックスに負けそうな人間」のほうが、僕は好きだ。
 彼らは人間の「歪み」みたいなものを認識しているし、他人の歪みに対しても寛容なことが多い。
 でも、「コンプレックスと戦うどころか、それに依存してしまう人間」は苦手だ。彼らは「こんなコンプレックスを持っているワタシって、かわいそう!」とか思っているだけで、そんなものは誰でも掃いて捨てるほど持っているものだなんて、考えようとしない。感受性が豊かなフリをしているだけで、想像力は貧困極まりない。
 
 しかし、その一方で、コンプレックスに乏しい人間の「天真爛漫さ」や「おおらかさ」を僕は信じない。そんな善性は、小学生の「どうして恋愛くらいで人殺しが起こったりするの?」という疑問みたいなものだ。
 彼らは楽天的な態度でいるようで、本当に「人間性」が問われる場面では、一文無しの人々の前で「パンがなければ、お菓子を食べればいいのに」と言い放つ。何の「罪の意識」も持たずに。
 そういうのは、場合によっては罵詈雑言よりも深く他人の心を傷つけるものなのだ。

 たぶん、この世の「コンプレックス」や「トラウマ」の多くは「言い訳コンプレックス」「後付けトラウマ」で、この言葉が人口に膾炙するまでは、この世の中に存在しなかったものなのではないか。
 たとえそんなものがあったって、自分から負けてやる義理なんてないだろう?

 僕は、「コンプレックスが無い人間」よりも「コンプレックスに負けない人間」になりたい。
 ただ、それだけのこと。
 


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