七夕の日のお願い。 - 2004年07月07日(水) そもそも、七夕というのは「バレンタインデー」とともに、年を取るにつれてどうでも良くなってくるイベントだ。 織姫とか彦星とかが会えないと大変みたいだが、彼らには来年の保証もあるし、だいたい、よく飽きずにつきあっているものだ。「サマーバレンタイン」なんて宣伝してみても、こんなに暑いとビアガーデンにくらいしか足も向かない。 まあ、そんな戯言はさておき、病院とか学校というところには、たいがい七夕飾りがあり、願い事が書かれた短冊が吊るされている。 ぼんやりと眺めていたら、その短冊の願い事というのは、ほんとうにさまざまな種類があることに気がつく。 「彼氏ができますように」「新しい車が買えますように」という個人的なものから、「みんなが来年試験に受かりますように」という集団型、「世界が平和になりますように」というようなグローバル型。病院では、「病気が良くなりますように」という願いが必然的に多いわけなのだが。 そういう短冊を眺めながら、僕だったら何を書くだろうな?と考えた。 七夕の「お願い」というのは、ある種異質なものだ。 クリスマスプレゼントほど「具体的なもの」である必要性もないし、初詣ほど「個人的なもの」でなくてもいい。そして、何に向かって願っているのかよくわからない。さらに、他人の目にふれる可能性が高い。 希望と願望と期待と見栄が交錯する七夕飾り。 今の僕には、七夕さまにお願いするような切実な願いというのがない。欲しいものが買えるくらいのお金はあるし、そもそも、家とか高級車なんて買えないレベルに高いものには、あまり興味もわかないし。 「モノ」に対する切実な興味は、もうあまりないのだ。 あんまり偉くなりたいとも思わないし、彼女だっている。まあ、もっといい彼女が欲しくない?と言われると、少し悩むかもしれないが。 「ドラマチックな恋愛」よりも、安心できる関係のほうが僕は好きだ。 仕事も完璧にうまくいっているわけではないんだけど、「にっちもさっちもいかない」というレベルではない。 もちろん、僕が寝ている間に小人さんが論文書いててくれないかなあ、とかは思うけど。 そんなことを考えていたら、小学校の頃の担任の先生が、始業式の日に僕たちに話してくれたことを思い出した。 「俺が好きなのは、お前たちの『あれが欲しい!』という眼なんだ。『欲しいモノ』は何でもいいから」って。 当時の僕は、そんなあさましいというか、貧乏くさい欲望丸出しの眼が好きなんて、趣味悪いオッサンだなあ、この先生…と感じたのだが、今考えると、その先生の気持ちはよくわかるような気がする。対象が何であろうと「欲しい」というエネルギーは生命力の発現みたいなものだから。 たぶん、今の僕には、そういうギラギラしたものが抜けてしまっているんだろうなあ、と苦笑い。 もちろん、「治したい持病」が今のところは虫歯くらいしかないのは、喜ばしい限りだが。 あえて言えば、「切実な『何かが欲しい!』という想い」が、僕の今欲しいものなのかもしれない。 七夕さまには、呆れられるかな。 ...
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