曖昧なピープルが世界を回す - 2004年06月26日(土) 学会というやつに出ると、いつも知恵熱が出て困る。要するに、世界は最先端の研究と治療に満たされているのではないか、という幻想に取り囲まれて、それについていけない自分がアレルギー反応を起こしている状況なのだ。 「ああ、この人は切れ者なんだろうなあ」とか「こんなにひとつのことに執着できるなんて凄いなあ」なんて、僕はただ演壇を見上げるばかりで。 まあ、その一方で、「これは極論なのではないか?」というようなものも散見されるし、現場無視というか「がん患者の自然予後をどうして検証しないんだ!ひょっとしたら治療してもしなくても一緒なんじゃないか!」とかいうコメントを述べる人もいるわけで。 いや、確かに変わらない可能性だってあると思うよ。理論としては正しい。でも、そんな「研究」の対象にされて早死にするのは、誰だって遠慮したいだろう。 基本的に会場には、そういう一部のエキセントリックなまでの「推進力」と「とりあえず何もやってないとカッコつかないから発表してみる」という人、日常診療を離れて、「今日はポケベルも鳴らないし、久々にゆっくり飲めるな」という人までいるわけだ。後者が「いいかげんな医者」というものではなくて、世の中がうまく回っていくためには、そういう「日常生活を愛する人々」というのは、良い緩衝材になっているのだと僕は思う。そして、そういうタイプの人間たちが、人類の大部分なのだ。 僕は基本的には小泉支持なのだけれど(というか、小泉さんよりマシな人というのも思いつかないし)、今度の選挙では、ちょっとだけ自民党が負けるくらいがいいな」と思っている。率直なところ、揚げ足取りだけの民主党とか、宗教がらみの某政党とか、逆バック・トゥ・ザ・フューチャーの社民党とか共産党というのは、「こんな人たちが政権とっても、きっと今よりマシにはならないだろうなあ…」とつい考えてしまう。とはいえ、これ以上小泉さんがアンタッチャブルな存在になっていくのは、あまりに危険な気もするのだ。小泉さんの一存で戦場とかに行かされるのはやっぱりかなわない。 「今こそ決断のときだ!」「日和見主義を捨てろ!」なんていうムードが渦巻いているけれど、実際のところ、そういう「日和見主義」というのは、そんなに悪いものではないのかもしれないし、ほんとうは、そういう「ハッキリしない曖昧なバランス感覚」こそが、特定のイデオロギーで世界を染めてしまうよりも、「できるかぎりの平和」を維持するためには有用かもしれないな、なんて思うのだ。 「今の日本は、難しい立場に置かれている」 確かにそうなんだろうけど、じゃあ「簡単な立場」な時期がいつあったのか?と問われたら、本当はたぶん、そんな時期なんてなかったのではないだろうか?「最近の若者は…」という愚痴が、古代遺跡から発掘されるのと同じように。 いや、唯一あるとすれば、それは「戦争をしていた時代」だ。「鬼畜米英」というのは、思想としてはシンプルかつクリアカット。 もちろん、学問の世界と照らし合わせても「推進力としての極論」が必要なこともわかる。でも、その一方で、そのムードに酔ってしまうことで、「バランスをとる努力」を放棄するのは、すごく危険なことなのだ。 インターネットには「極論」があふれているけれど、そんなものに簡単に共感してラクをしてはいけないと思う。 大声で喋るやつが、常に正しいことを言っているとは限らない。 フォント弄りが、常に笑えるわけではないのと同じことだ。 ...
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