インターネットは「危険なコミュニケーションツール」なのか? - 2004年06月11日(金) インターネットが危険なコミュニケーションツールか?という点については、僕はハッキリ「そうだと思う」と言わざるをえない。 もっともそれは、「人間にとっては、コミュニケーションそのものが危険を孕んでいる」という大前提があって、インターネットというのがそれをより簡単かつ効率的に行ってくれるツールである、というのが理由なのだが。 昨日仕事場に不動産屋から電話がかかってきたのだけれど、「今月分の家賃が振り込まれていないんですが…」というような督促の内容だった。通帳の金が何者かによって抜き取られたのか、自動振込みの期限が切れたかのどちらかの理由(たぶん後者)だと思うのだが、まあ、金を払っていないのだからこちらに非がある。でも、その不動産屋の男と話していて僕は内心ムカつきまくっていた。なぜかというと、その男はいちいち人を小馬鹿にしたようなヘラヘラとした話し方をしていたからだ。こちらで「では、本当に振り込まれていないんですね?」と確認すると、「そりゃそうですよ、そうじゃなかったら、いちいち電話するわけないじゃないですかー」とか、そんな感じ。 正直、普通の買い物とかの話だったら、「キャンセルします!」と言ってブチ切れてしまいそうだったのだが、部屋となると「ここで大ゲンカして『出ていく!』とかいう話になっても、引越しとか大変だしなあ…」とかそんなことを考えると、やっぱり下手に出てしまうしかなかったのだ。でも、今度引越しをしたら、二度とこの不動産屋には関わらないようにしたいと思う。 そもそも、僕はアパートを借りて4年もの間、一度の遅滞もなく家賃をきちんと払い続けてきたし、大きなトラブルも起こしたことがないのに、なんで一度の滞納でそんなヒドイ扱いを受けなければならないのか。 まあ、それはいい。しかし、あらためて考えると、電話というツールでは、「顔が見えない」からなおさら、相手の態度とか喋り方というのが気になるものなのだなあ、ということを痛感した出来事だった。電話のメリットとして「顔が見えないから何でも話せる」とかいうけれど、本当は「顔が見えないからこそ、話し方とか声の大きさなどに気をつける必要がある」ということなのだと僕は思う。 例えば、受話器を激しく「ガチャン!」と置かれただけで(今は携帯が主だからそんなことはほとんどないけど)そこに、なんらかの「悪意」を感じてしまう人だっているのだ。 インターネットは、「書いてある文章」(人によっては、絵とか音、という場合もあるけど)でしか、他人と繋がることができない、不完全なコミュニケーションツールだ。当たり前のことだけど、それをもう少し理解しておいたほうがいい。 要するに、「書いたことがすべて」なんだから、裏を返せば「よほど注意して書かないと、無用な誤解や争いの原因になる」ということだ(もちろん、注意して書いてもクレーマーみたいな人もいるけどね)。「顔も見えないし、自分が誰だかわからないから、勝手に好きなことが書ける」なんて思っている人は、このツールの特性を利用しているようで、本当は全然わかっちゃいない。本来は「書かれているものしか伝わらないから、より一層気をつけて文章を書く」ようにするべきなのだ。ちゃんと誠意を持って書きさえすれば、それだけで判断してもらえる世界にもかかわらず、それをうまく利用できない人が、なんと多いことか。 僕の今の仕事の多くは「文書のやりとり」をすることなのだが、実際にやってみると、これはけっこう怖い。僕が間違って癌じゃない標本の診断書に「癌」と書けば、その患者さんは必要のない手術を受けることになるかもしれない。臨床の場では、ちょっとした失敗があっても、医者と患者のコミュニケーションが取れていれば、「まあ、先生だって人間だから」と許していただけるケースだってある(もちろん、命にかかわるようなミスは別だ)。でも、診断書だけで繋がっている存在にとっては、書いてあることだけがすべてで、そこには情状酌量の余地はない。「この先生だって疲れてタイプミスしたんだろうから…」なんて、顔を見たこともない人間に対して温情をかけてくれる人間というのは、そんなにいるものではないのだ。 「言葉だけの世界」を「顔が見えないから、何やってもいいや」と考えるか、「言葉だけでしか伝えることができないのなら、その言葉を大事にしなくては」と考えるかは、その人間しだいだ。 もちろん、「嘘の言葉で他人を騙す」ことだってできるし。 僕は「インターネットでのコミュニケーションだけで、誰かとわかりあえる」というのは幻想だ」とずっと考えてきた。でも、こうしてずっとサイトをやっていると、少なくとも、「言葉だけの世界」についてどういう意識を持って接しているか、という姿勢だけでも、けっこう伝わってくる面もあるのだと思うようになってきた。もちろん、全幅の信頼なんておけないけれど、「僕にとって、つきあってみる価値がある人間」かどうかくらいは、なんとなくわかるような気がする。 ...
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