そんなに簡単に「共感」できるなんて羨ましい。 - 2004年06月07日(月) こんなふうにサイトをやっていると、さまざまな批判を浴びることだってある。まあ、僕の場合は自分で蒔いた種だったりすることもあるので、仕方ないなあ、なんて思うこともあるのだけれど。 しかしながら、最近はサイト上でも実生活においても、「共感」というものに対する違和感を覚えることが多いのだ。むしろ、相手に悪意がないという点においては、「批判」よりも性質が悪いことすらある。 例えば、「僕が子供の頃、キン肉マン消しゴムが流行ってさあ…」なんて言ったことに対して、「そうそう、流行ったよねえ」とかいう「共感」は、僕だって嬉しいし、思い出話に花も咲くというものだ。 でも、「うちの親が病気で亡くなって…」というような話に対して「そうそう、私の親もこの間病気で亡くなったので、共感します」とみたいなことを言われたら、実際のところどうなのだろうか? 僕は、そういうのはちょっと苦手だと感じる。人間にとって負の記憶というのは、そう簡単に他人に理解できるものではない、と考えているからだ。例えば、地下鉄サリン事件の被害者に「わかるわかる。僕も子供のころ焚き火の煙吸って苦しかったからさあ…」なんて、「共感」した自分の話を始める人がいたら、どう思いますか? 「死」とか「失恋」なんていう「大きな負の体験」というやつは、残念ながら、その衝撃を受ける側の人間の感性によって意味づけは大きく異なってくるし、安易に「その気持ちわかります!」なんて言われてしまうと、かえって、「お前にわかるものか!」なんて反発してしまうものなのではないだろうか? 「親の死」にしても、90歳まで生きて、家族に看取られての大往生と「行ってきます」と普通に挨拶した直後の事故死では、周囲が受ける衝撃は異なるものだと思う。 にもかかわらず、それを「親の死」という型にあてはめて「共感」してしまう人が、なんと多いことか! 他人の痛みや苦しみに感情移入することはとても大事なことだし、ある意味「人間としての誠意」そのものなのではないかと思う。でも、だからといって、それを相手に安易な形で「共感しました」なんて伝えることは得策ではないだろう。 悪意でないのがわかっているだけに、返答に困ることだってある。 「そんなもんじゃないのに!」ってさ。 人間の体験というのは、基本的に個人的なものだ。同じ風景をみていても、受け入れ方は人それぞれなのだし、安易に「共感」なんてできない。 とはいえ、「共感なんてできない」という諦めのもとに、葬式に行かなかったり、声をかけなかったりすると、それでは何も伝わらないというのも事実なのだ。 そういう匙加減というのは非常に難しいものだと僕は常日頃感じているのだけれど、そんなこと考えたこともなく「共感」しまくっている人なんかも多くって、僕っていうのはつくづく生きるのが下手なんだなあ、なんて悩んでみたりもするのだ。 ...
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