無自覚に「世界の中心で、悪口をさけぶ」人々へ - 2004年06月05日(土) 佐世保の事件では、加害者側の女の子のことと「ネットという媒介」がクローズアップされているわけだけれど、僕は正直なところ、殺されてしまった女の子は、あまりにも「無防備」だったと思うのだ。そもそも、小学生にそんな「防備」を要求することはおかしなことなのかもしれないけれど。 だいたい、「ネットは本音で語れるツール」だというようなイメージを持っている人が多いようだが、それは単なる「幻想」にしか過ぎない。僕もサイトをやっていて、そんなに数は多くないものの中傷されたり、「やり場のない感情」みたいなのをぶつけられることがある。 僕だって失礼な言葉を投げつけられれば腹が立つし、言い返してやりたい、とも思う。でも、そんな常識の無い人をいちいち相手にするのは時間のムダだし、関わりたくもない。だから、苛立ちながらもノーリアクションを貫くことにしている。 基本的には、人に殴られるのもイヤだが、人を殴るのもイヤだから。 だが、この日に書いたように(今日の内容は、この内容の繰り返しみたいなものだ)、ネットというのは「どんな悪口だって許される無法地帯」ではなくて「反撃してもメリットがないから放置されているだけ」なのだ。 僕だって、本当に反撃するべき誹謗中傷を受けたら、あらゆる手段を使って反撃するつもりだし、法的手段も辞さない。 「あんな悪口程度」なんていうのはオトナの感覚であって、僕だって小学生のころは、些細なこと(それは、テストの点数がちょっと悪かったとか、友達に仲間はずれにされたとか、そんな「つまらないこと」だ)で、心を痛めていたものだった。でも、家と学校、とくに自分のクラスだけが世界を構成している時期の子供にとっては、それは、けっして「些細な問題」ではない。 「いい子ぶっている」なんていうのは、「いい子」であることを恥ずかしく感じがちな小学生くらいの時期の子供にとっては、最大限の侮辱だろうし。 ここを読んでくださっている方々は、おそらくサイト管理人が多いと思うのだけれど、サイトの掲示板への書き込みというのは、たぶん書くほうにとっては「2人きりの状況で文句を言う」というくらいの認識なのだろうけど、サイトという「世界の誰にでも見ることが可能な世界」を管理する側にとっては、「世界の中心で、悪口をさけばれる」ような気持ちになるものではないですか?もちろん、そんなふうに世界中の人が見ることが可能だからといって、実際に観ているわけもないのが現実だとしても。 「誰だかわかっている相手に大勢の人の前で罵倒される」という状況であれば、ちょっとキレやすい人間なら、なんらかの「復讐」を考えることは、けっして不思議なことではないのかな。 もちろん、それが「人を殺す」という行為になってしまうのは異常なことだ。ただし、加害者の小学生にとっては、そういう直接的に相手を傷つけるような方法しか思いつかなかったのかもしれない。オトナにだって、「酒を飲んで口論となり、カッとして」人を殺す人間だって、けっして少なくはないのだし。 もちろん、「そのくらいで人を殺そうとするほうが悪い」のは間違いない。 でも、「ネットだから、直接顔をあわせないから、どんな悪口を言ってもいいんじゃない?」というのは、所詮「ご都合主義」だと覚悟しておいたほうがいい。今の世の中、その気になりさえすれば、誰がどこで書いたかなんて、いくらでも調べることは可能なのだ。 僕は思う。現実で他人に面と向かって言えないようなことは、極力ネット上に書くべきではないのだ。それは、「公衆の面前で放たれた悪口」みたいなものだから。もし書くのであれば、それなりの「覚悟」をしておくべきだろう。足を踏んだあとで「相手がヤクザとは知りませんでした」なんて言っても、通用するわけがない。 もう、ネット上だけでの幻想の世界というのは、一部のシャレのわかる人間たちの間にしか成立しなくなってしまった。 今では、出会い系サイトだって、すぐに「写真送って!」って言われる時代なのだから、ネット上での言葉のやりとりだって「お遊び」だと思っているのは自分だけ、ということは十分にありえる。 だいたい「ネット上に書いていることだけで友達になれる」という考え方に準拠すれば「ネット上に書いていることだけで恨まれる」とか「敵意を持たれる」可能性について憂慮するほうが自然なのではないか。 昔のネットは「もしもボックス」だった。「ココデハナイドコカ」に行けそうな気がしていた。 でも、今のネットは「どこでもドア」で、現実と現実との距離を縮めはしたけれど、現実に無いところに行くことは、けっしてできない。 ネットは楽しい。でも、とても怖いツールだ。 それでも、「世界の中心で、悪口をさけぶ」ことができますか? ...
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