「感情」と呼ばれるものについて<その2> - 2004年04月19日(月) (1)僕はずっと、自分に本当の感情なんてなくて、「笑うべき状況」だから笑い、「泣くべき場面」だから泣いているような気がしていた。要するに、シチュエーションに応じて「反応」しているだけなのではないかって。そういえば学生時代に「シンドラーのリスト」をみんなで観に行ったら、周りがみんな泣いていて「オレも泣かないとマズイかな」と思ったこともあったな。 そういうのは、一種の「離人感」なのだろうか。 (2)実は、「絶対的な感動」なんてないのかもしれない。どんなに感動的なドラマだって、ネットやりながら片手間に観ていれば、「ふーん」って感じだものね。逆に、「泣きたいとき」には、ありふれた人情ドラマにだって泣いてしまうこともあるし。 (3)馬券の買い方、というのは、その人の性格がよく出るものだ。僕はだいたい「なんとか当てたい」という欲が強すぎて、あれもこれもと買いすぎてしまい、当たってもそんなに儲からないわりには外すと痛い、という買い方をしてしまう。要するに、「ギャンブルになっていないギャンブル」をやっているのだ。まさにJRAのいいお客さんだ。 (4)「2ちゃんねる」の書き込みとかを読んでいると、あんまりヒドイことが書いてあるので腹が立つこともあるのだが、きっとああいうのの大部分は、普通の人の負の感情の捨て場になっているのだと思う。そう考えると、存在意義というのは、確実にあるのだろう。ジョギングしている人に「そんなことでストレス解消するな!」と文句言うのが筋違いみたいなもので、見なければいいんだよな。まあ、自分が風評被害を被りそうな場合は別として。 (5)誰かを説得するのに最良の方法は、「その人の誤りを責める」ことではなくて、「その人にとって何が一番得なのかを理解させる」ということなのだろう。ただしその方法は、説得者にとっては自分の正しさを証明できない、要するに「責めるより気持ちよくない」ので、あまり用いられることはない。 (6)ほんと、他人の考えていることがわかるようにできていなくて良かった、と思うよ。 (7)世の中の大部分は、理屈ではなくて、「好きか嫌いか」で動いているということだ。そして、「どうしてみんな(僕が考える)正しいことに従わないんだ!」という人は、その意見の正しさ以前に誰にも話を聞いてもらえない。 ...
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