マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

「捨てる」ということの大切さ - 2004年04月17日(土)

 この1週間くらい、いろんなことを考えていた。
 イラクの人質事件についてもさまざまな意見のぶつかり合いがあったし、やっぱりそういうことについて誰かとやりとりするというのは、それはそれで疲れるものなのだ。例えそれが、WEBの上という限定された空間であったとしても。
 でも、最近は正直疲れてきたし、こうやって何かを発言することに意味があるのだろうか?というような無力感もあるのだよなあ。
 「あなたの意見は…」というのに続くのは「絶対に正しい私の意見」で、僕はその人を「説得」すべき手段を持たないし、そんなことをしている暇もなければ、そんな疲れることをやれるほどの気力もない。

 僕は30過ぎて、ようやく「自分が生きていくのがラクになった」と感じている。そのひとつの理由としては、職業人としてキャリアを積んで、少なくとも仕事の上で「自分の存在価値」みたいなものを意識できるようになったこと。もちろん替わりなんていくらでもいるのだけれど、まあ、それはそれでいい。いかりや長介さんが亡くなってまだ1ヵ月にもならないのに、僕はもう「追悼番組にもちょっと飽きてきたな」なんて思っているし、昭和天皇が崩御されたときでも、地球が急に逆回転したりはしなかった。

 そして、もうひとつの理由は「捨てること」を覚えたことだと思うのだ。
 子供の頃の僕は、今にも増して「ものが捨てられない子供」で、ボロボロになった枕カバーとか、壊れたおもちゃなんかにも「魂」を感じてしまって、それを「捨てる」というのを懼れていた。肉とか魚は、「その動物が殺される痛み」みたいなものを自分の中で想像してしまって、それを「食べる」ということができなかった。今では平気どころか焼肉とかは大好きになったが、それでも魚の目玉をしゃぶる人は信じられないし、牛肉の活き造りがあったら、たぶん食べられないと思う。まあ、後遺症みたいなものだ。

 イラクのことをどんなに僕が偉そうに考えてみても、所詮、僕はイラクでボランティアをやろうなんて思わないし、劣化ウラン弾の怖さを世界にアピールしようなんて考えたこともない。まあ、そういうのはひとつの「興味」の問題で、合コンと更新のどちらを選ぶか?と問われたときに、何の迷いもなく「更新!」と心の中で呟きながら、同僚の誘いを「ごめん、週末はちょっと用事があるから!」なんて断るのと同じようなものだ。手鏡で階段を登る女子高生のスカートの中を覗かないのも「たかがパンツのために、そこまでするほどの価値を感じない」からであって、たぶん世の中には「すべてを失っても、今ここで女子高生のパンツの中身が見たい!!」と思う人もいるのだろう。だからといって覗いていいというものではないのが社会というものだし、覗かれるほうの都合だってあるんだろうけど。「金持ってるんだから、イメクラにても行けよ!」と言う人もいるのかもしれないが、ヘンに頭のいい人というのは、そういう代償行為で解消するというのができないタイプが多いような気もする。「違い」を頭の中で理論化してしまうのだよなあ。そして、そういう強迫観念が「捨てられない」のだ。
 あの人の不幸は、学歴があって、テレビのコメンテーターとかをやっていたということだ。こう言っては悪いが、ホームレスの人やヤクザの若者が同じことをやっても、こんなにセンセーショナルに叩かれはしなかったはずだし。ああ、そのくらいやるだろうね、みたいな。
 そう考えると、僕はそういう「社会的不適合な衝動」が今のところ自分の中にほとんどないことに、感謝すべきなのかもしれない。

 僕は最近「捨てる」ということを考えることが多くて、それは昔の思い出であったり、モノであったり、何かに対する興味であったりするのだ。
 「捨てる」ということは、ネガティブに考えられがちなものだが、この年になって、「捨てることというのは、すごくすごく大事なのだ」ということがわかってきた。
 例えば、「まだ読んでいないけど、たぶんこの先も読まないであろう本」が増えすぎると、部屋がどんどん手狭になってしまうように。
 イラクのことを僕がどんなに心配してみたところで、本当は何も役に立たないんじゃないか、と思うのだ。どんなに偉そうな言葉を口にしてみても、僕には自分の体をイラクの人々のために捧げるほどの善意はないし、稼ぎの多くを割いて彼らに与えようなんて思えない。自分が生きるのに目一杯で。
 それでも、僕の周りではさまざまな議論は尽きないし、僕自身だって、いろいろ考えることは多い。
 「何も考えずに、日常のことに全力を尽くせ」というのは、ある意味「奴隷の思想」なのだろう。とはいえ、学会で「イラクのことをずっと考えていたので、スライド作れませんでした」とか壇上で口にする人がいれば、それはやっぱり「それならイラクに行け!」と後ろ指をさされるに違いない。
 「イラクのことはイラクのこと」だし「自分のことは自分のこと」だというような割り切りができないと、生きていくのは難しい。
 
 「あまり考えすぎないようにしよう」と思う。
 興味を捨てるのは難しいことだけど、本当は僕自身がイラク情勢に興味があるのではなくて、単に「みんなが興味を持ちそうな話題なので、取り上げている」というのが、僕の正直な気持ちなのかもしれないし。

 今は、とにかくさまざまな情報が耳に入ってくる時代で、相対的に人間の「体感時間」は短くなったのではないだろうか。現代人には「何もできない夜」なんていうのは存在しない。それなのに、「考えるべきこと」の範囲は、広がっていく一方で。

 「お魚さんや牛さんがかわいそう」という気持ちを「捨てる」ことができたからこそ、僕は普通の食生活が送れる。読んでいない本をどうしても読みたい、という気持ちを「捨てる」ことができたから、なんとか発表の準備がすすめられる。善悪はわからないが少なくともいちいち悩んでいるよりはラクだ。
 「忘れられるから人間は生きていける」のと同様に、何かを得るためには何かを「捨てる」ことが必要だ。僕は誰にも嫌われたくないと思って生きてきたのだけれど、悲しいことだが「誰にも嫌われていない八方美人」という理由でその人を嫌いになる人間というのも存在するし(いや、僕自身がまさにその嫌ってしまうタイプなのだ)、「みんなに公正に接している人」というのは、いざというときに味方がいなくなってしまったりするものだ。ほら、みんなでキャッチボールをやるときに、ことさら嫌われてはいなくても、特定の友達がいない人はなんとなく取り残されてしまうのと同じことさ。

 どうしてこんなことを長々と書いているかというと、たぶん、僕は自分のことを本質的に「捨てられない人間」だと思っているからだ。だからこそ「捨てることの難しさ、大事さ」を今、自分に言い聞かせている。
 
 僕は、イラク情勢のことは、基本的に自分の日常生活から「捨てる」ことにする。そして、自分の仕事をやる。そんなことを言ってみても、たぶん生き方なんてそう簡単に変えられるものではないのだろうけど、それでも、少しは気がラクになるといいな、と思う。

 なるべくシンプルに、サラッと生きたい。
 それが今の僕の切実なる願い。




...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

Mail Home