マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

映画「イノセンス」感想(ネタバレです) - 2004年03月21日(日)

(この文章には、映画「イノセンス」のネタバレが多数含まれますので、未見およびこれから観ようという気持ちがある方は、読まないほうがいいです。というか、お願いだから読まないでください)。



 さて、昨日押井守監督の「イノセンス」を観たのだが、19時過ぎからの会で、中規模の部屋に客は3〜4割。内容とは直接関係ないのだけれど、最初に流れる予告編(僕はこれを観るのがけっこう好きなのだ)が、「キューティーハニー」とか「スチームボーイ」とか、アニメ系ばかりで、逆にさんざん流れている「トロイ」とかをやっていなかったのには驚いた。うーん、やっぱりマニア向けなのか「イノセンス」。

 で、映画を観ての感想としては、台詞回しが銀河英雄伝説チックというか、何もいちいちそんな小難しいことを言い合わなくてもいいんじゃないか、という気がしたことを除けば、なかなか楽しめる映画だったと思います。正直なところ、テーマの斬新さというのはあまり感じなかったのだかれど、むしろ「こういう場面は、こういう演出でみせるのか」というような感慨が大きかった。しかし、そういう「まわりくどさ」というか、「みんなわわからないかもしれないけど、自分だけはわかっている感」みたいなのが、この映画の魅力なのかもしれません。

 正直、「攻殻機動隊」を観てなかった僕には、設定とかは限りなくなくわけがわからないし、あの「少佐」という人が出てくるのは、あまりに唐突かつ強すぎなキャラ設定で、「るろうに剣心」の斎藤一のような、全体のゲームバランスを壊してしまうキャラ設定のような印象も受けました。それに、これほど「人間」を出さずに「人間」を出そうとした作品は珍しいかな、とも。最後の船での戦いとか、敵の幹部が出てくるわけでもなく、ただ淡々と襲ってくるレプリカント(じゃなくて、なんと呼ぶのだろう、セクサロイド?←ガイノイドらしい)を撃ちまくるのみ。最後の最後まで、「観客が憎しみを投影するべき個人」というのは、登場しないのです。ただ、「個人」を描かなかったことで、「人間という生物」が浮き彫りにされている面もあるのかな。
 よくわからないところもたくさんあったのですが、それは実際には「難しい」というよりは、「意味ありげな引用の内容を頭の中で咀嚼しているうちに、ストーリーが先に進んでしまっている感じ」でした。

 僕がこの映画であらためて感じたことというのは、「人間と人形、そして機械の境界の曖昧さ」みたいなもので、それは、僕が前から考えていた「人間は機械なのではないか?」という感覚によくマッチしていました。人間は、まだ人間自身には解釈しきれないくらいの精巧な機械であり、すべての情報を数値化し入力することができれば、「人間の一生」(それは、道に迷ったときに、右に行くか左に行くか?」まで)なんて、完璧にシミュレートできるのではないか、というものです。
 僕たちが「悲しい」と思って泣くのは、僕たちにインストールされているプログラムが「そういう情報は『悲しい』というものなんだよ」という条件式にあてはまる状況を「悲しい」と解釈して、涙を流すというプログラムを実行するのではないか、「感情」というのは、そんなに聖なるものではなくて、単に「入力信号に対する反応」なのではないか、というような世界観。

 しかし、僕がそんな話をすると、一緒に映画を観に行った人に、こんなことを言われました。
 「確かに、あなたの言うとおりなのかもしれない。でも、『人間はプログラムに沿って動いているだけの機械だ』ということが仮にわかったとして、誰がそれで幸せになるの?何かそれでいいことがあるの?」
 僕はそれを聞いて、考え込んでしまいました。
 彼女は「面倒なことに対しては、思考停止してしまう」というようなタイプではないですし、日頃は人間の「こころ」にまつわる仕事をしています。そして、その僕への問いかけは、たぶん、「それでは、自分の仕事はなんなのだろう?」という自分への問いかけもあったはずなのですが。

 考えすぎることや、何かを知ろうとしすぎることは、ときに人を不幸にします。「そんなことなら、知らなきゃよかった」なんて経験は、誰でも一度や二度はあるのではないでしょうか?
 結局、僕は何のためにいろんなことを考えているんだろうか?
 「自分だけは知っている」という自己満足のために、誰も喜ばないような「真理」を追究することに、果たして意味があるのかどうか?

 「知ること」によっても、結局は幸せになれない人間という存在。
 それでも、「知りたい」という欲求を抑えなれない、残酷なイノセンス。



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