マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

たとえば、「日常性に溺れる」ことについて。 - 2004年03月17日(水)

「半熟ドクター(3/16)」を読んで。

 ああ、こんな文章を読んでしまうから、僕はまたいろんなことを考えてしまう。20歳くらいまでの僕って、本当にバカバカしいくらい自意識過剰で、天下国家を語りたがり、「見かけや職業に左右される感情は、『愛』じゃない」なんてことを本気で考えていたのだ。
 僕は年をとってよかったなあ、と自分では思っている。そりゃ、体脂肪は劇的に増えたし、若い子にモテモテ、なんて状況には全くならないが、少なくとも自分というものを肯定、とまではいまでも、まあ、こんな人間がいてもいいだろう、と自分で自分を受け入れられるようになったし(ああ、でもまだ自分の顔を鏡でジロジロみたり、自分が写っている写真を見たりするのは、今でもイヤでイヤで仕方がない)、いろんなことに寛容になってきたような気もするのだ。
 だが、それは自分で「おおらかになった」と思い込んでいるだけで、実際には単にいろんなことを誤魔化すのがうまくなっただけなのかもしれない。 【「心」とか言うけどさ、結局「貧しくても」心が美しい人、とか「キレイなのに」親しみやすい人、なんて、「心」を語る前に修飾語がついてるじゃないか、どうせ、そんなもんだよ。それなら、最初から見かけや学歴を気にします、って自覚したほうがいいんじゃない?】なんて。
 どんなにがんばっても世界なんて救えるわけもないし、ノーベル賞がもらえるわけでもない。それが現実なのだし、それならそれで、小市民的な幸せを見つけたらいいさ、みんなそうしているよ。とりあえずときどき美味しいものが食べられたり、日記を書いて褒めてくれるメールが来ればいいや、それもまた人生のヨロコビだ。

 それはたぶん、自分に対する言い訳なんだろうな、なんて思う。どうせ何もできないんだから、と自分に言い聞かせ、何かに一生懸命頑張っている人に「なんか、宗教的だよなあ」とか冷笑をあびせる。
 オトナなんて、情けないものだ。
 でも、僕は少なくとも、それで生きるのがラクになった。
 そんなの邪道、とか言いながら、年賀状をパソコンで作ってしまうようなものだ。便利さに一度慣れると、元に戻るのは至難のわざ。

 そして今日もこうして、虚構の自分語りをして時間を過ごす。
 自分より若い人たちの書いたものを読んで、「青いな」「『正しい理念』ばかりで、誰も共感しないだろうな」と内心苛立つ。
 もう、「正しい理念」を振りかざす勇気が無くなってしまった自分に。

 本質は何も変わっていないのかもしれない。
 でも、僕を覆う殻は、どんどん厚くなっていくのだ。
 そしてもう、それに包まれないと生きていけないような気がしてきている。見栄えのいい殻のために生きている、そんなときもある。

 
 …これでも、生きているのが鬱陶しいと思う夜だってあるのだ。


...




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