マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

結末だけを知りたがる人々 - 2004年03月14日(日)

 「あらすじ本」の流行は留まるところを知らず、昨日本屋に行ったのだけれど、これでもかとばかりにその手の本が積み上げてありました。
 「このくらいは常識!日本の名作100選のあらすじ」や「世界名作30選」など(タイトルはうろ覚えです)。
 最初にこの手の本を考えた人は、凄いと思う。この数十年で娯楽の幅というのは革命的に広がってしまって、「共通体験」というべき「スタンダード」な本は、ほとんど死滅してしまったから。
 もっとも、今の子供たちにも「ポケモン」とかがあるし、スタンダードが絶滅したわけではないんだろうけど。

 僕が子供の頃、今から20年前くらいは、まだまだ娯楽の幅自体が狭くて、テレビの放送が無くなってしまえば、ラジオを聴くか、本でも読むかしかやることがなかったのだ、本当に。ラジオも「鶴光のオールナイトニッポン」なんかを聴きながら、内心、「これって、どんな意味?」とか考えていたものだった。いや、なんとなくわかるものはわかってはいたんだけど。

 例えは、本にしても「読むべき本」というのは比較的範囲が狭いもので、学校の「読書好き」は、江戸川乱歩の「少年探偵団」やドイルの「シャーロック・ホームズ」を片っ端から読んで、僕みたいにマイナー志向を気取る人間ですら「怪盗ルパン」とかで「人とは違う」ことをアピールしていたくらいだった記憶があるのです。そういえば、エラリー・クイーンとか格好つけて読んだけど、「XYZ」以外は全然ピンと来なかった。クリスティは面白いのが多かったなあ。あんまり分厚くなかったし。

 でも、今の子供たちは違う。ビデオ(DVD)、ゲーム、本にしても、中古書店がたくさんあるから、安い金額でたくさん本が買える。要するに、「やることがない」とう状態に、陥ることなんてないんじゃないでしょうか。もちろん、リアルタイムで子供をやっている人は、そんなことないと感じているのかもしれないけどね。
 少なくとも、「本」しかも漫画ならぬ「名作」と呼ばれるような作品にそんなに手が伸びるとも考え難いのだ。だいたい、僕の子供時代から20年も経っているのだから、今の子供にとっては一層「時代おくれ」の印象があってしかるべき。
 僕だって、10年前のトレンディドラマなんて観ると、「携帯持ってたらよかったのにねえ…」なんて思ってしまうものなあ。

そう考えると、永遠の名作なんてありえないのかもしれないし、「名作を読む」っていうのは、もはや共通体験ではありえず、「こんな話だった」っていう「知識」だけで十分なのかもしれない。
ただ、僕がちょっと心配なのは、最近あまりに「結果だけを必要とする人々」が増えてしまって、プロセスが失われてしまうのではないかなあ、ということなのです。
どんな面白いゲームでも、エンディングだけ観たら面白くもなんともない。でも、「そのゲームをやった!」とみんなに言いたいためだけに、エンディングだけ観るようになってしまうのかも。

実は、「ドラクエ」と「FF」だけが突出して売れるのは、それらが「売れることを前提に手間とお金がかけられている素晴らしいゲーム」であるのと同時に、「ドラクエ」や「FF」なら、みんなと「共通体験」ができるだろう、という気持ちもあるのではないかなあ。だから、新しいゲームに、入り込む余地みたいなものは、これからもどんどん少なくなっていくのかもしれません。実際に「D」と「F」と「P」以外のRPGは、次第に売れなくなっていっているみたいだし。
まあ、そんなのは当たり前で、まっとうに学校や会社に行っている人間は、このくらいでもう、おなかいっぱいなんだよね。

結局、名作というのは、過去の遺物になってしまう運命なのかもしれません。でも、その一方で、名作というのは、「年月」という最強のフィルターを通りぬけてきたものたちだから、バカにはできないと思うんですけどね。
プレイステーション・ベストみたいなものか。

ところで、例の「名作あらすじ集」を読んでみると、実際にあらすじにしてしまうと、文学作品というのは、いかにバリエーションが少ないものか、なんて感じてしまいます。そんな読み手がビックリするような結末なんて、ありえないんだよね、とくに本の場合には。残りのページ数で「まだ終わらないな」とか「そろそろ決着つくな」とか、つい考えてしまうし。

そういえば、人生とかいうやつだって、結末にはたいしたバリエーションはないものなあ。
何でも結末だけを知りたがるんじゃなくて、プロセスを楽しめないと、やっぱり損なのかも。


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