マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

もうひとつの「耳をすませば」 - 2004年03月13日(土)

 ケッ、美男美女の初恋物語かよ、こんなの現実にはありえねー!
 少なくとも、自分には異次元だよこの話は。

 僕の「耳をすませば」に対する、この10年来の感想は、こんな感じでした。最初に映画館で観たときも、「とんでもないもの観てしまった…」と大後悔時代に突入してしまいましたから。まあ、サエナイ・モテナイ中高生時代(いや、モテナイどころか、高校は全寮制の男子校ですらあったんだけどさ。でも、来るやつには寮にバレンタインのチョコレートとか送ってくるんですよ本当に)を過ごした僕にとっては、「ホビットやエルフよりよっぽどファンタジーな映画」という感じ。
 何度、席を立とうと思ったことか!
 そういえば、「カントリー・ロード」の本名陽子さんの歌声だけは、なぜかすごく好きでしたけど。表現力豊かというよりは、真っ直ぐに前に向かって放たれる声。

 それで、今回あらためて観直してみたのですが、さすがにあれから10年経つと、いろんなものが変わったのだなあ、なんて思います。黒電話で連絡を取り合う中高生カップルなんて、もう絶滅種でしょうし、あんな清純派の女子ばかりいるような学校もありえないでしょう(それはたぶん、当時からそうだった)。今だったら、キスくらいするだろうな、とか思ったし。まあ、リアルタイムの時点で、すでに「こんなピュアな恋愛物語なんて、ありえん!」とみんな思いつつも、これはジブリだ!と心に言い聞かせていたわけですが。

 でもね、僕は10年間、「耳をすませば」は、恋愛モノだと思い込んで心の中で激しく排斥していたけど、今回観て、これは「自分探しの物語」なのだなあ、ということがはじめてわかったような気がしたのです。
 雫が物語を書いているシーンなんか、なんとなく自分のことを振り返ってしまった。僕はいわゆる似非文学少年だったのですが、自分で創作をするということは、あまり考えたことがありませんでした。それが、中学校のとき、「火吹き山の魔法使い」という本が出て、それから「アドベンチャー・ゲームブック」というのが大流行したとき、ちょっとした変化があったのです。
 たぶん全然知らない人が多いのだろうけど、「ゲームブック」というのは、要するに「途中に選択肢があって、自分の選択によってストーリーが変化していく本」のこと。例えは、「分かれ道がある。左に進むなら56ページ、右なら80ページに行け」というような感じで、その行き先のページから、物語が分岐していきます。

 これにハマった僕は、「よし、自分でゲームブックを作るぞ!」と思い立って、自分の学校を舞台にした内輪ネタ満載のゲームブックを書いたりしていたのです。それはもう、ほんとうにくだらない内容ではあったのだけど、そうやって「何かを完成させる」という行為は、すごく楽しかったような気がするのです。実際は、描きかけの超大作ばかりが残って、完成したのは何篇かくらいだったんですけどね。

 「耳をすませば」の中で、雫のお父さん(それにしても、立花隆の「あまりに声の演技をしていない」声優っぷりにはあらためてビックリ…)が「人と違うことをして生きるというのは、キツイことなんだぞ」と言うシーンがあります。結局、レールの上に踏みとどまって、「人と同じことをして生きる」道を選んだ僕にとっては、ちょっとせつなくなる言葉でした。

 「耳をすませば」というのは、ラブ・ストーリーであると同時に(あるいは、それ以上に)「何かを創り出すことに目覚めてしまった人々」の話なのかもしれません。いや、本当に描きたかったのは、むしろそっちの方なのかな、なんて。「彼が好きだから物語を書こうと思った」のか「物語を書くきっかけが彼だったのか」は、結論が出せる話ではないのだろうけど。

 あんな美男美女の恋は、僕には縁遠い話だったけど、それだけで拒絶する必要もないのかな、なんて思った「耳をすませば」だったのです。
 相変わらず恋愛パートについては、全然共感できませんでしたが。

 携帯電話が普及して、学生たちがブランドものを持ち歩くようになって、「愛の形」が変わっても、「創作者たちの苦悩と葛藤」というのは、たぶん不変なんじゃないかなあ。


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