インターネットは人を「癒す」のか? - 2004年02月11日(水) 参考リンク:「インターネットは引きこもりなど精神的に悪影響……」との調査に逆説(MYCOM PC WEB) 「インターネットは人を癒すのか?」という質問には、どういうふうに答えたらいいのだろう。だいたい「癒し」という言葉の定義そのものが非常に曖昧なもので、「ちょっとした気分転換」というようなレベルから「人生の疲れを快復するためのもの」というレベルまであるのだろう。 だいたい、「イルカが人を癒す」と説いていたジャック・マイヨールが自殺してしまったのを聞けば、「癒し」なんて言葉のいいかげんさを考えずにはいられない。 人によって気分転換の方法というのは異なる。酒やタバコで気分転換をすれば、人生の「負け組」的な扱いを受けることが多いし、テレビゲームが趣味だと、「不健康な人間」だと言われる。 テニスや野球などの「スポーツが趣味」だと、それだけでイメージがアップする。人生というのは不公平なもので、テレビゲームが趣味なのとスポーツが趣味なのとでは「何かが好き」という点ではベクトルの大きさが同じでも、社会的な評価は異なるということだ。 そういうのは、一種の「この時代に生まれた運」みたいなものなのかもしれない。 インターネットの便利さというのは、大きく分けて2つあって、「情報の即時性」(「質」は、正直まだアテにならないと思う)と「同好の士を集めやすい」という点にある。 実社会で自分という人間をさらけ出して同好の士を探すというのは非常に大変なことだ。とくに自分がマイノリティの場合はなおさらだ。 でも、インターネットで「僕はこんなのが好き!」と言えば(そして、幸いにもそれが多くの人の眼にふれることができれば)、「僕も」「私も」という人が名乗り出てくれることは、そんなに珍しいことじゃない。 しかしながら、それは別にそういう趣味の人が増えたわけじゃなくって、スクリーングする分母が増えた分、分子の数もそれに伴って増えているだけに過ぎないのだけれど。 しかし、そうやって露出してしまうことには、正直難しい面も多い。 「コミュニケーションに対する考え方」というのは人それぞれで、男と女であれば、出逢ったその日はアドレス交換程度が普通だという人もいれば、最後までいくのが当たり前だと考えている人たちもいる。 仮にある種の趣味に対して「同好の士」であっても、その他の人生観がすべて同じだとは限らないのだ。 それに、人の眼にふれる機会が多くなれば「お前はどうしてそんなものが趣味なんだ?」とケンカを売ってくる人も出てくる。そういうとき、「誰も見ていない時代のほうがよかったよなあ」なんて、ディスプレイの前で溜息をつくことだってある。 「インターネット」というのは、現在のところ、結局最後は人間対人間、ということになってしまう。 でも、ネット上の人格がすべてじゃない、ということは、常に頭に入れておいたほうがいいだろう。 僕はネット上での自分というのが、リアルな存在であるよりも、むしろオンラインゲームのキャラクターみたいなものであることを本当は望んでいるのだ。 電源を入れればすごい魔法が使えて、どんなにモンスターに襲われてボロボロになっても、電源を切ればそれでおしまい。 「インターネット」は、あくまでもツールであり、それに対する接し方、価値観も人それぞれだ。 「インターネットで癒される」と感じる人もいるだろうし、「インターネットは単なる道具だ」という人もいるだろうし、「インターネットなんて煩わしい」という人もいる。 ただ、それだけのこと。 大事なのは、それぞれの目的に合った使い方をすることと、他人の使い方を受け入れるということだ(もちろん、他人に迷惑をかけるような使い方は許されない)。 認めてほしい、でも放っておいてほしい、というのが、矛盾した考え方だなんて、わかってはいるのだけれど。 ...
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