書き手と読み手の微妙な距離感 - 2004年02月04日(水) 先週末に、ラジオで聴いた話。 直木賞作家の阿刀田高さんが、こんなことを喋っておられた。 【ラフカディオ・ハーン(=小泉八雲)という人が、「雪女」の話を書いているんです。 若者と年寄りの2人の男が雪山で遭難して、そこで雪女に遭うんですよ。それで、年寄りのほうはそのまま殺されてしまうけれど、若い男のほうは『ここで見たことを誰にも言わない』っていう約束で、命を助けてもらう。 それからしばらくたって、その若い男は、村で、身寄りが無いのでこれから江戸に行くという美しい女、おゆきと出逢うんです。男は一目惚れしてしまい、おゆきを『とりあえず自分の家に来ないか』と誘います。それで結局、おゆきは男と一緒に暮らすようになるんですが、その場面の転換のところが、すごく印象に残っているんですよ。 男とおゆきの村での出会いのシーンのあと、小泉八雲は、 『当然のことながら、おゆきは、江戸には行かなかった』 とだけ書いて、話は次の場面に進んでいくんです。 男に誘われたあと、どのようにしておゆきが男と結ばれたか、なんてことは全く端折って、この一行でおしまい。 僕は、この『当然のことながら』というところに、すごく魅かれるんですよねえ。普通、男とおゆきが家に行ったあとの描写とか、いろいろ書きたくなるじゃないですか。おゆきが何者か?とか。でも、八雲はそうしなかったんですよ。考えてみれば、ずっと読んできた読者にとっては、おゆき=雪女ってことは、すぐわかっちゃうわけです。そして、2人が再会することによって、何かが起こるってことも。だから八雲は、実際に読んでいる読者の気持ちになって、それを代弁するように『当然のことながら』と書いたんです。「みなさんにとっても、わかりきったことでしょう?」って。こういう作家と読者との距離感っていうのは、やっぱりプロの作家は凄いなあ、と子供心に思いましたよ。】 半分備忘録のようなつもりで思い出しながら書いてみました。この話を聞いて、阿刀田さんのこの感性も、タダモノじゃないなあ、と僕も感動しました。 「ものを書く」というのは、自分を表現すること、なのですよね。でも、「人に読んでもらう文章を書く」ということには、また違った難しさがあります。一読者としては、書き手のあまりに肥大した自意識を垂れ流しているような文章というのは、あまり読む気がおきないものです。よっぽどの有名人とか、自分の興味がある人はさておき。 しかしながら、自分が書く側になってしまうと、ついつい「自分を読み手の基準にした文章」というのを書いてしまいがちなのです。 「この表現は、専門知識がない人にはわかりにくいかな」と長々とクドイ説明を加えてしまったり、いろんな方面のことを考えて、ついつい結論が消化不良になってしまったり。 八雲さんは、たぶん、2人の馴れ初めのシーンを詳細に描くこともできたはずです。書き手としては、2人の心の機微を描いてみたいという気持ちもあったはず。 でも、それを敢えてやらない勇気と客観的な視点を持っていたわけですね。 「読者は、『おゆきは江戸には行かないんだ』ということがわかっているはずだ」という確信。 「読み手との距離を測る」というのは、書く側の人間からすると、本当に難しく、かつ重要な問題だと思うのです。 説明不足もダメですが、説明過多もまた、読み手にとってはしらけてしまいますし。 もちろん、これを読んで「説明不足」を感じる読者だっていたのかもしれませんが。 いちばん多くの読者が納得できるところにうまく「落としどころ」を設定するというのは、まさにプロの技術。 「自分の書いたものを客観的に読める」というのは、プロの書き手としての必要条件なのかもしれませんね。 ...
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