人間とコンピューターの境界線 - 2004年01月27日(火) 今日は講演会があって、半ば義務的に「医療技術へのコンピューターの応用」の話を聞かされていたのだが(正直眠かった…数学は苦手なんだってば)、その中で講師の先生が「現在のコンピューターは、間違えることができない」と言っていたのが、妙に心に残った。 「将棋ソフトで、とんでもない手を指すことだってあるじゃないか」 「桃鉄(桃太郎電鉄・コンピューターボードゲーム)で、適切なカードを使わなかったりするじゃないか」 確かに、その通り。しかしながら、こういうのは「コンピューターが間違っている」のではなくて、「間違えるようにプログラムされていて、その通りに動いている」のか「現在の能力の限界で処理しきれないので、結果として完璧な答えが出せない」だけなのだ。 コンピューターは、間違えない。 実は、それこそがコンピューターと人間との差なのかもしれない。 「間違えないコンピューター」は、人間に対して手抜きもできないし、嘘もつけない。 よく、「自我を持って反乱するコンピューター」というのがSFで語られるが、現実的には、現在の構造の延長では、「コンピューターが自我を持つ」というのは不可能で、「自我を持っているように見せかける」ということしかできないのだ。 コンピューターは、人類のいろんな手間や距離を縮め、人と人との距離を近づける一方、戦争の道具になったり、他人を中傷する窓口になったり、人と人との格差を生み出した。 でも、それはコンピューターの責任ではない。 彼らは「そういうふうにプログラミングされていた」だけで、人間の意向を反映しているだけなのだ。 少なくとも、今のところは。 「人間は機械じゃない!」という言葉を耳にするたびに、僕は「でも、僕たちが『感情』と思いこんでいるものは、プログラムみたいなものじゃないのかな?」なんて考える。「悲しいこと」がインプットされると涙が出るし、「嬉しいこと」がインプットされると笑顔になる、そんなプログラムに従って動く、精巧な機械。 そして、嫌な事件が起こるたびに「そんなふうにプログラムされている人間を更生することができるんだろうか?」なんて呟いてみるのだ。できるとすれば、「プログラムの改変=洗脳」だけなのでは?なんて。 どうせコンピューターなら、「悲しい」とか感じなくて済めばよかったのにね。 ...
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