「新撰組!」の「らしく生きる辛さ」 - 2004年01月25日(日) 今日、「新撰組!」を観ながら思った。 ああ、三谷(幸喜)さんは、わかってるなあ、と。 番組の最後のところで、近藤勇は「百姓だから、侍にはなれないから、より侍らしくなるんだ!」と叫ぶ。 そうなのだ、幕末に「侍らしかった」のは、本当の(身分上)偉い侍じゃなくて、日頃バカにされていたような下級武士や農民上がりの連中だった。 当時は、切腹の儀式は形骸化していて、切腹者が扇を腹に当てるのを合図に介錯人がとどめをさす、というのが普通だった。 しかし、新撰組や志士たちは「鉄の掟」で「自分で腹を切る」という「本当の切腹」をやっていたのだ。 僕はいつも思う。 本当に男らしい男は「男らしくしよう」なんて思わないだろうし、そういうコンプレックスも持たないはずだ。 金持ちが金持ちに対するコンプレックスを持たないのと同じく。 「成金根性」なんてバカにされたりするのは、たぶん、そういうコンプレックスが「金持ちらしく振舞おう」という行動になってしまうのだと思う。 「女らしく」「人間らしく」「大人らしく」 世界には、たくさんの「らしく生きる」という生き方が溢れているけれど、実際には「自分は女らしくないんじゃないか?」「人間らしくないんじゃないか?」「大人らしくないんじゃないか?」という不安やコンプレックスが、「らしく生きなければ」という動機になっているのだ。 新撰組の隊員たちをつき動かしていたのは、「俺たちは侍じゃないのなら、より侍らしく生きてみせてやる!」という意地と見栄だったのだろう。 そう考えると、新撰組がこんなに長い間、人々に愛されている理由もわかるような気がする。 僕たちだって、みんな「〜らしく生きる」というのを脅迫観念のように持って生きているわけだから。 しかしなあ、「らしくしなければならない」っていうのは、やりがいがあるのと同時に、辛いよほんとに。自分で自分をがんじがらめにしていく行為。 サイトの文章だって、「こんなのらしくないよなあ」なんて自分で決めたりしているのに気付いて、愕然とすることもあるくらいなんだから。 ...
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