マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

「ジロジロ見ないで」と「ジロジロ見ないように」 - 2004年01月21日(水)

参考リンク:『ジロジロ見ないで “普通の顔”を喪った9人の物語』(扶桑社)

先日本屋に行ったとき、偶然手に取ったこの本。
ちょっと興味を持ってページをめくっていたら、なんだか目が離せなくなってしまった。
この本には、火傷や病気などで、明らかに「普通」とは違う顔を持ってしまった人たちの手記が、写真付きで紹介されている。
どの人も、正直言って街で見かけたら「どうしてこんな顔に…」と思ってしまうような顔。
読んでいて、僕はなんだか、いたたまれない気持ちになってしまった。

この人たちが僕の近くにいたら、たぶん僕は「ジロジロ見る」ことは無いと思う。だいたい僕は、もともと人の顔を見る習慣がなくて、いつも街で知り合いに声をかけられるとビックリする。
どうしてこんな人の顔だらけのところで、知り合いの顔を認識できて、その上「もし人違いだったら…」なんて考えずに、特別な用もないのに声をかけられるのだろう?なんて思ってしまうのだ。

でもおそらく、この人たちが僕の近くにいたら、「彼らの顔を見ないように」とものすごく意識するだろう。
それもまた、「差別意識のたまもの」なわけで。
「自然な態度で接しよう」とか「差別しないようにしよう」なんて考ている時点で、「普通じゃない」のだ。
だって、日頃友人・知人や街の人に接するときに、そんなことを意識する人なんているはずもない。
だいたい、「自然に」なんていうけれど、「じゃあ、こういう顔の女性と付き合おうと思だろうか?」なんて考えてみると、たぶん「思わない」。

「普通に接する」というのは、とても難しいことで、過剰に「それでも強く生きているなんて偉いなあ」なんて言うのも「差別」だろうし、「こういう人たちを差別してはいけない」なんていう考え方だって「差別」なのだ。
 彼らの言葉に感銘を受けることすら「差別」なのかもしれない。

 この本を読んでいて、かっこ悪くてモテないが、なんとか「普通」の範疇に入って生きている自分をちょっとだけありがたいなあ、なんて感じてしまった。それでまた自己嫌悪。

 子供の頃「ヘレン・ケラー」の伝記を読んで感動したのと同時に、僕が思ったことがある。
 ヘレン・ケラーは、「見えない」「聞こえない」「話せない」という大きな障害を克服した偉人であり、彼女がやったことというのは、「障害を持つ人々に勇気を与えた」ことになったけれど、彼女ができるようになったことというのは、「普通」の人間にとっては「なんの努力もせずに(というのは言いすぎ?)できること」なのだ。
 さまざまな障害を乗り越えた末の彼女にとってのゴールですら、「普通の人」のスタートにすら達していない。
 そんなふうに考えると、ヘレンの「偉大なる人生」は、なんだかとても虚しくて哀しいようにも感じられるのだ。
 
 「ジロジロ見ないで」は、すごく良い本だと思う。
 でも、これを読んでも、僕はどうしたらいいのか、全然わからない。

 「普通に接する」ことって、本当に難しいよなあ…


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