綿矢りさ「蹴りたい背中」を読んでみた(軽度ネタバレあり)。 - 2004年01月19日(月) とりあえず綿矢りさ「蹴りたい背中」を読んでみた。 「19歳の芥川賞作家」のことをあれこれ書いてみたけれど、やっぱり読まないで小説家の批評をするなんておこがましいと思ったからだ。 僕はこの本をTSUTAYAで購入したのだが、正直言って驚いた。紀伊国屋のような大型書店ならともかく、どう考えても本を買うことを目的に来る人の率が低そうなTSUTAYAで、僕がそのあたりを逍遥しているわずか10分か15分くらいのあいだに、少なくとも10人近くの人(しかも外見上は、あまり本を読まなさそうな雰囲気の20歳くらいの若者が多かった)が、この「蹴りたい背中」を手に取っていたのだ。 実際に買った人は、その時間帯にはいなかったのだが、それにしても、TSUTAYAでこんなに単行本を次から次にいろんな人が手に取るのを初めて見た。 今回の芥川賞の選考は、そういう意味ではすでに「成功」しているのかもしれない。 実際、彼女がこんなふうに賞を取ったおかげで、あの装丁をみただけで敬遠していた僕のような30男も「話の種に」と手に取りやすくなったし、レジにも持っていきやすくなったわけだし。 こんな機会(芥川賞受賞)でもないと、エロ本とかよりもレジに持っていくのが恥ずかしいんじゃないだろうか? そういうのが、自意識過剰なのかもしれないが。 さて、肝心の「蹴りたい背中」の中身なのだけれど、140ページで1000円というのはコストパフォーマンスに劣るような気はしたが、「そんなに悪くないな」という感じだ。僕はキライじゃない。 少なくとも、辻仁成の「海峡の光」を読んだときの衝撃には遠くおよばない。あれは本当に、酷かった。小説としてより、日本語として酷かった。 僕は「蹴りたい背中」を読み始めた時点で、ある種の「既読感」を持った。もちろん綿矢作品を読んだのははじめてだったんだけど、その感覚は、3分の1くらいのところで、確信に変わった。 「そうだ、これは村上春樹だ」 別に、綿矢さんが村上春樹をパクった、というわけじゃない。でも、この「蹴りたい背中」という作品には、村上春樹作品、とくに「ノルウェイの森」あたりと同じ香りがする(ちなみに、綿矢さん自身も、インタビューで好きな作家として村上春樹の名を挙げている。 現実と折り合えない(と本人は感じている)主人公と、主人公の周りの「現実に適応しているように(主人公からは)見える人たち」、そして、「根本的に現実社会に染まることができない人たち」が、作中には登場してくる。 「蹴りたい背中」の「現実に染まることができない人たち」=にな川は、「ノルウェイの森」の直子やキズキほど深刻なものではないし、作品の中で、彼は「現実への適応の兆候」を見せるのだが。 村上春樹の小説というのは、「一部の感応する読者に『これは自分のことが書かれた小説だ』というインパクトを与える」と言われている。確かに、僕も村上作品の主人公に、自分との共通点を見出して嵌っていったのだ。 しかしそれは、あくまでも「自分のことが書いてあると思わせる小説」であって、この世界に「自分のことだと思いこんでいる人が何十万人もいる」というのが現実なんだけど。 そして僕たちは、自分という存在が、「俗世間に染まった人々」と、「本当に社会と適合できない人々」のボーダーラインに浮かんでいて、その2つの世界のパイプであるというような錯覚を抱いてしまう。 つまり、そういうちょっと自意識過剰な主人公=ワタナベ君=ハツ(「蹴りたい背中」の主人公)=自分、というような。 だから、綿矢りさの紡ぎ出す世界に感応して「自分のことが書いてある」と思ってしまう同世代人というのは、なんとなく理解できるような気がする。ちょうど、僕が村上春樹に感応してしまったように。 ところで、文章家としての綿矢さんの力量なのだが、こちらの方も書かれているように、正直ムダな修飾語や、しっくりこない比喩が多く、「、」がたくさんありすぎるし、ちょっと興醒めな面もあった。なんとなく、クロード・シモンの「フランドルへの道」っぽいな、なんて。 ただ、この読んでいるほうがもどかしくなるような文体は、考えてみれば、「綿矢りさ」という作家にとってはひとつの武器なのかもしれない。少なくとも、この「読んでいてもどかしくなる、まわりくどくて気が利いた比喩をいちいち探しているような文体」は、「蹴りたい背中」で描かれている「自意識過剰なもどかしさ」というのに非常に合っているのだ。 そして、やっぱり「キャラクターの魅力」というのは否定できまい。 とはいっても、登場人物というより、作家「綿矢りさ」本人の。 もしこの作品を40代くらいの作家が書いていたら、正直僕は最後まで読めなかったと思う。 でも、19歳の綿矢りさというカワイイ作家志望の女の子が、「こんなふうに書いたらサマになるかな…」なんて、たどたどしく悩みながら書いた文章だと思うと、けっこう楽しく最後まで読めてしまう。評価するという観点からは失格なのだが、そういうのは、消すことのできない読者としての自然な感情なのだ。 WEBサイトでも同じなのかもしれないが、「作品は作品、作者は作者」なんてクリアカットに分けて考えられる人は、そんなにいないはず。 「檸檬」の梶井基次郎の写真に驚愕したり、ガンダムのシャアの声が大工の棟梁みたいなオジサンによって出されていることに落胆したりした人は、僕だけではないのでは。 ストーリーは、「知らない異性の同級生の家にいきなりついていく」というシチュエーションが、ものすごくファンタジーだと思う。もちろん褒めてるんじゃなくて、「そんなことありえない」という意味で。「半落ち」のことを渡辺淳一が「あんな行動をとるなんてリアルじゃない」とけなしていたのだが、僕にとっては、この「ほとんど面識のない同級生の男の家に一人であがりこむ」という状況のほうが、よほど「リアルじゃない」ような気がする。もちろん、僕は渡辺さんのようにリアルだけが正義だなんてさらさら思ってはいないが、「ありえねえ」とちょっと興醒めだったのは確かだ。 「蹴りたい背中」が芥川賞に値する作品かは、なんともいえない。ただ、「綿矢りさ」という作家を「先物買い」したいという理由は、よく判るような気がする。おそらく、彼女の作品は一部の読者には、確実に「自分のために書かれた小説」として歓迎されるもので、彼女はそれを無意識のうちに理解しているのはないか、と思うのだ。 そしてそういうのは、職業作家にとって「天性の才能」なのだろうと思う。簡単そうにみえて、そういうバランス感覚なんて、誰にでもあるものじゃない。 日本に100人じゃ商売にならないし、全員に好かれようとすると、結局誰の心にも響かない。 「誰も読まない小説」というのは、所詮「小説としては無価値」であって、少なくとも誰かが手に取って「面白い」とか「つまらない」なんていう評価のまな板の上に載ることができた時点で、綿矢りさは勝ち組だ。 「つまらない」は「読もうとも思わない」に比べれば、極上のコメントなのだ。 いずれにしても「そういえば綿矢りさ、って作家がいたよねえ」と後世言われるか、「そういえば綿矢りさって、『蹴りたい背中』なんてのも書いてたよねえ」と後世言われるようになるか、その答えが出るのには、もう少し時間がかかるだろう。 なんとなく、「あんまり巧くなりすぎたら、面白くないだろうなあ」なんて思ってみたりもするのだけれど。 ...
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