マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

活字帝国の逆襲 - 2004年01月16日(金)

それにしても、いい時代になったものだと思う。
僕のように、「書くことは好きだけど、目立ったり自己主張したりするのが苦手」な人間にとっては、こんなふうに(一応)匿名でネット上に文章を書いて、世界のどこかからリアクションをもらえることがある(まあ、カウンターが1つ回るのだって、リアクションのうちには違いあるまい)なんて、信じられないことだ。
一昔前なら、「自分で書いた文章を他人に読んでもらう」ためには、地域の文芸サークルに入ったり、知り合いに読んでもらったり、雑誌に投稿して運良く賞でもとったりしなければムリだった。そのために、「他人に読んでもらうためにプロの作家になる」というモチベーションすら存在したくらいで。
ところが、今はそれこそ仕事の合間に、「誰か不特定少数の読者」を対象に書くことができるわけで、そういうのは僕のような「中途半端な文章書き」にとって、ありがたいことこの上ないのだ。

だいたい、ネットというやつは、本当に便利な代物だ。
ニュースやスポーツの結果がリアルタイムでわかるし、専門知識だってゴロゴロしている。ウソも多いが、それを見抜く楽しみだってある。
他人の生活をちょっと覗き見することだってできる。

しかし、僕はネットの限界みたいなものを感じることがある。
ネットというのは、今のところはあくまでも試食のためのツールでしかないのではないか、なんて。
ネット上ではいろんな作品が公開されているのだが、そんなに「当たり」なんて引けるわけもない。
ニュースだって、多くの人は「これで十分」と思っているのかもしれないが、新聞の紙面をちゃんと読んでみれば、ネット上でタダで閲覧できる情報が、いかに端折られたものであるかというのがわかる。
 偏ったメディア批判をしている人(僕も含めて)の文章だって、ずっと眺めていれば「偏りのある批判」になっていることが殆どなのだ。
 もっとも、100%中立な姿勢というのがあるのなら、それはそれで「風見鶏」という非難にさらされることだろうが。
 人間は、口伝されてきた「知識」をより多く、より正確に伝えるために「文字」という文化を創造してきた。グーテンベルクの活版印刷術がプロテスタントの発展に寄与したように、活字という媒体が、知識の広範な伝播に果たした役割は大きい。

ネット上の情報の多くは、いわば、最近流行の「名作文学あらすじ集」みたいな印象がある。応用が利かない、歴史年表の暗記のようなものだ。歴史を学ぼうとすれば、むしろ数字より人間のドラマを記憶していくほうが有益だろうと思う。
もちろん、これからネット上の情報が整備されてくれば、その情報はどんどん「有益な」ものになっていくだろう。
まあ、「混沌」がネットの根源的な魅力ではあるので、そう簡単に折り目正しくなるとも考えがたいが。

僕は、活字は必ず復権してくる、という予感がしているのだ。
現に、今年の芥川賞作家2人は、あの若さで「作家になること」を目指していたのだし、僕も最近、「ネット上で有益な情報を拾い集めていくこと」にちょっと疲れ始めているのだ。
少なくとも、活字媒体の多くには選ばれた書き手がいて、編集者がチェックを入れている。読者からの反響だってあるだろう。
どんなにわれわれが朝日新聞をバカにしたって、あの媒体は1日1千万人くらいの人が(もちろん全ページを詳細になんて見てない。僕の知る限り、いちばん新聞を熱心に読む人は、病院に入院中の患者さんだと思う)目を通している。僕たちが書いているものなんて、あの「侍魂」でさえ通算1億カウントを突破したことが大ニュースになったくらいなのに。

まだまだ、「活字」はバカにはできない。
おそらくこれからは、ネットがテレビで、本は映画のような位置関係になってくるのでは、と僕は考えているのだが、少なくとも、うわべだけでない知識を手に入れようと思ったら、本も読むべきだと思う。
ネットだけで世の中がわかったような気になるのは、「目撃!ドキュン」を観て人生がわかったような気になるようなものだ。

とにかく、まだまだネット上の情報は洗練されたものではない。
もちろん、活字の世界にだって「トンデモ本」というのは存在するのだが、それでも、当たりを引ける可能性は、まだまだ活字媒体のほうが高いような気がするのだ。

ただし、本だけ読んでれば世の中のすべてが理解できるというわけでもないのだけれど。



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