「好戦的な宿命」について考える。 - 2004年01月04日(日) 最近の格闘技ブームを観ていて思う。 僕たちは、人と人が闘い、血を流すのが好きなのだろうか?と 今から10年位前、あるゲーム雑誌にこんな投稿記事が載っていた。 「戦争ゲームは、子供の教育上よくないのではないか?」 その投稿者の女性は、ゲームの中で「人間の命が数値化される」ということを危惧していて、そういう「ゲームでの人名軽視の思想」が、子供たちにを好戦的にし、悪影響を与えているのではないか、と主張していた。 (光栄というメーカーの太平洋戦争のゲーム「提督の決断」が槍玉に挙げられていた。) それに対しての意見は「僕たちはゲームによって、自分の好戦的な気持ちを『ガス抜き』しているんだ」というものや「ゲームは現実とは別物だ」というもの、そして「ゲームで数値化された『人の死』を体験することによって、かえって戦争の恐さを知ることができる」というものだった。 僕はゲームが好きだ。でも、その一方で、「ある種のゲーム(たとえば、「GTA3」や「三国無双」など)は、あまり人間の行動にいい影響を与えないだろうなあ」とも思う。しかし、こういう、ある種背徳的なゲームは面白いのだ。「現実ではできないから、ゲームでやるんだ」というのは、やっぱり一面の真実なのだと思う。 その証拠に、グラフィックやサウンドの進化は、どんどんゲームを残酷にすることに利用されているじゃないか。 結局、多くの人は好戦的なのではないか、と思う。 好戦的という言葉が危険であれば、「自分が傷つかない争いが好き」と言ってもいい。 ほんと、曙とサップのどちらが強かろうが、自分の人生には何の関係もないことなのに。 戦争を避けようとするならば、「自分が曙やサップと闘わされる状況」を想像するしかない。 僕たちは戦争を想像するときはアムロやシャアの役なのに、実戦ではジムとかボールで「邪魔だ!」とかいって一発でやられる役なんだろうけどなあ。 しかし、何故だかわからないけど、格闘技とか戦争ゲームって、やっぱり面白いのです。 ...
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