マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

それは、本当に「悲惨な人生」なのか? - 2003年12月13日(土)

 浜崎あゆみの番組を観ていたら、「フランダースの犬」の隠れた名場面というのが流れていた。
 アロアがイギリスに行くことになって、ネロ2人で地図を見ているシーン。
 「イギリスは遠いね…」と言いながら、地図のフランダース地方とイギリスの距離を親指と人差し指で測ろうとするネロ。
 「僕の指じゃ、届かないや…」

 ちょっとガッカリした様子の2人だが、ネロはその隣りにある縮尺の大きい(もっと広い範囲が描かれた)地図を見つけてアロアに言う。
 「あっ、この地図なら届くよ!」
 「そうね、うふふ…」
 そんなことをしたって、現実のイギリスとフランダースの距離が縮まるわけでもないのに、微笑みあう2人。

 この場面を観ながら考えた。
 僕にとっての記憶の中の「フランダースの犬」は、ネロとパトラッシュが食べ物もなく、凍えながら教会にたどり着き、最期に教会でルーベンスの絵を見て天に召されるという、救いようのない話だった。
 でも、いくらなんでも、「フランダースの犬」の第一話から最終回まで、全部が全部悲しい話じゃないはずだ。
 僕が覚えているのは最終回がほとんどだけど、「フランダースの犬」の中には、楽しいシーンや心温まるエピソードもあったに違いない。
 「ネロとパトラッシュの悲惨な最期」のイメージにとらわれすぎて、彼らの人生(&犬生)の楽しい部分を忘れてしまっているんだよなあ、きっと。

 人間にとって「死に方」というのは確かに大事だろうし、残念な死に方をしてしまうと、その記憶だけが残りがちなものだけれど、今の日本で普通に生きていれば、多かれ少なかれ「幸せな場面」だってあったはずだ。
 僕は、「悲惨な死に方」だけじゃなくて、「楽しく生きている姿」を少しでもこの世界に残しておきたいし、他の人のそういう姿を覚えていたいと思う。そんな気がする。
 実際は、悲しい出来事のインパクトに押しつぶされてばかりなのだけど。




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