マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

ホーク・ウォーリアーの死と「強く見せること」の悲劇 - 2003年10月21日(火)

ホーク・ウォリアーさんが亡くなられた。
しかし、こういうふうに、亡くなったときだけ敬語っていうのもヘンな話だ。
プロレスをやっている最中に「出た〜ホークさんのラリアット!」なんて言うわけもなく、プロレスラーというのは呼び捨てもリングネームのうちのような気もするので、以下は全部呼び捨てにさせていただく。
ロード・ウォーリアーズは、僕がプロレスを一生懸命観ていた時代からは、ちょっと新しい存在だった。
僕にとってのプロレスのピークはタイガーマスク〜長州力の維新軍という、まさに新日本プロレスの黄金時代で、金曜日の8時には、いつもテレビの前に座って古館節に酔っていたものだった。
もっとも、古館アナは、辞める直前には自分に泥酔していたみたいだったけど。
そういえば、「キン肉マン」が大ブームになったのもこの頃だった。

その頃は、「週刊プロレス」なんて雑誌も買っていたし、「プロレススーパースター列伝」というマンガも欠かさずに買っていた。
今から考えたらトンデモないエピソード満載のプロレスラーの武勇伝(アンドレ・ザ・ジャイアントが移動中に乗っていた飛行機の食料を全部食べつくしたとか、ファンク兄弟が、所有する牧場で牛にスピニング・トーホールドをかけていたとか、そんな話)で、世界は満たされていたのだ。

一度だけプロレスを会場で観たこともある。
「信じられないほどデカイ!」と思ったアンドレ・ザ・ジャイアントは、出てきたと思ったら3分で反則負けになってアッサリ帰ってしまい、客席ははなんとも言えない溜息と罵声に満たされていたけれど。

中学校くらいから、僕のプロレス熱は抜けてしまった。
金曜夜の新日本プロレス中継が終了してしまったこともあり、僕とプロレスは疎遠になった。
それに、ちょっとオトナになれば、本気で闘うのであれば、卍固めなんてまどろっこしい技をかける余裕なんてないってことはよくわかる。

「プロレスは八百長だ」
今から考えれば、それは失礼な物言いなのだと思う。
本気で、殺し合いをあればいいって問題じゃないし、「お約束」の範疇でいかに見るものを熱くさせるかというパフォーマンスなのだ、プロレスっていうのは。

脱線しすぎた。話を元に戻そう。
あの屈強な肉体を持つレスラーたちは、「殺しても死なない」ような存在だと思っていた。
でも、僕は今までにたくさんのレスラーたちの訃報を耳にしている。
しかもそれは、いささか若すぎる死が多すぎる。

アンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーザー・ブロディ、ジャンボ鶴田、ヨコヅナ、冬木弘道、古くは力道山…死に急いでしまったツワモノたちの系譜。
プロレスラーではないが、アンディ・フグやフロレンス・ジョイナーなども、僕のイメージとしてはこの系譜に含まれている。
ジャイアント馬場や鉄人ルー・テーズは、早逝というよりは、ある程度寿命かな、という印象もあったのだが。
そういえば、猪木ももう60歳。
30代前半の僕にとっては、しばらくは「喪失の時代」が続くことになるのだろう。
もちろん、自分が生きていたらだけど。

美しい肉体というのは、もともと「健康的」なものだったのだと思う。
でも、それが行き着いてしまうと、より美しい体、高い運動能力を極めるために、むしろ危険なトレーニングやステロイドの使用などに奔ってしまう。
もちろん、天寿をまっとうした人もたくさんいる(というか、これからもたくさん出てくる)だろうけど、強かったイメージが残っているだけに、早過ぎる死は、なんだかあっけなく、寂しいものだ。

なんでもやりすぎは良くないよなあ、などと思いつつ、他人と違う人生を歩むために自ら危険な道を選んでいった人たちのことを考えてみる。
不思議なものだ、僕たちは健康的すぎるものに「強さ」をあまりイメージできない。
そのかわり、彼らの酒豪ぶりや警官隊をノックアウト、といった負の武勇伝のほうに「強さ」を感じてしまう。
他人に「強くみせる」というのは、大変なことだ。

長生きするためには、何事も程々にってことなんだろうけどさ。



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