愛すべき「暴力教師」と子供が苦手な理由 - 2003年10月20日(月) 参考リンク:「さいきんのわたくし」(10/20・「暴力教師とわたくし」) 僕が小学生や中学生をやっていたのは、もう20年くらい前の話ですし、子供もいませんから、今の教育現場がどうなっているのか、というのは実感できないところがあるのですが。 僕が中学生のころ、クラスの担任の先生に「暴力教師」がいたんですよね。 宿題忘れると定規の角で頭をコツンとやられましたし、耳たぶを引っ張られたり、掃除中にホウキでホッケーをやっていてビンタを食らったりしたこともあります。 でも、その先生のことが、僕はけっこう好きでしたし。クラスでも「あのやろ〜」とかみんな言いながらも、頼りにしていたような気がします。 その先生は、贔屓をしない人でしたし、理不尽なことで殴られることはなかったですから。 もっとも、僕は比較的悪いことはしない生徒だったから、なのかもしれません。 「先生が生徒に暴力をふるうのは良くない」「話せばわかる」これはもう、正論には違いありません。 でも、言葉だけではなくて、痛みという感覚によって教えられることも、子供から大人の過程では、あるような気もするのです。 赤ん坊に「話せばわかる」なんて考えている大人はいないでしょうし、大人に「暴力でわからせる」のは不毛です。 では、その過渡期においては、いきなり「言葉で相手の理性に訴える」という方法だけでうまくいくのかどうか? 僕の子供時代の記憶からすれば、もちろん過剰な暴力は困りますが、体罰よりも特定の生徒を贔屓したりする先生のほうが、遥かに印象が悪かった気がします。 「これは悪いことだ」と自分で理解している状況での体罰は、もちろん痛いし嫌ですが、そんなに恨めしくはない。 多くの場合、体罰は悪い教師がいたいけな子供を虐待する、なんてものじゃなくて、オトナになりきれない子供と冷静になりきれない大人である先生の間に起こるものです。 それは、普通の人間対人間のぶつかり合いなわけで。 もちろん、学校内では、先生のほうが基本的には強い立場にあるわけですから、職権濫用で自分のストレスをぶつけてはいけないでしょうが、僕は体罰よりも贔屓のほうが、よっぽど子供に悪影響を与えるのではないかと思うのです。 まあ、体罰だって無いに越したことはないけれど、僕をそのとき怒ってくれた先生には、今ではけっこう感謝してるんですよね。たぶん、そこには愛情みたいなものがあったから。 「体罰はよくない」とヒステリックに叫ぶ大人をみるたびに、「体罰が行われた理由」を考えたことがあるんだろうか?と、つい考えてしまいます。 それこそ死刑囚が行ったことについて考えもせずに、「死刑はよくない!」って言っている人みたいなもので。 そんなの誰だって、死刑がいいことだなんて思っちゃいないって。 僕たちのクラスが合唱コンテストで優勝したときに、僕が用事があって職員室に行くと、その「暴力教師」がニコニコしながら自分の机の上に置いたトロフィーを眺めていたのを思い出します。それは、なぜか僕にとってもすごく嬉しい光景でした。 こばやしさんが書かれているように、子供には子供なりの打算や邪念というのがあります。 「子供は純真」なんて言い切る人をみるたびに、「この人は、産まれたときから大人だったのか、それとも、記憶を失ってしまっているのだろうか?」と僕は疑問になってしまうのです。 もちろん、その邪念レベルが、大人の基準からみたらカワイイものだったとしても。 というわけで、僕のイメージする「いい先生」っていうのは、「子供を子供扱いしない人」なのです。 しかし、子供って、「子供扱い」できないとものすごく付き合いづらい存在ではあるんですよね、実際のところ。 だから、僕は「子供が苦手」なんだよなあ。 ...
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