フジ子・へミングのピアノの「芸術としての」評価 - 2003年10月16日(木) ピアニストのフジ子・へミングさんの自伝がドラマ化されるということで、今朝の「めざましテレビ」で、彼女の半生が取り上げられていた。 フジ子さんとドラマでフジ子役をやる菅野美穂との対談でフジ子さんが菅野さんに向かって、「あなたがわたしの役をやてくれて嬉しい。でも、私はあなたほど可愛くはなかったけど」と言っていたのには、ちょっと笑ってしまった。まあ、僕は若い頃の彼女の姿を見たことがないのですが。 「シャイン」という映画を御存知だろうか? デビッド・ヘルフゴットという、心を病んでしまった天才ピアニストを描いた映画なのだが、この映画でも、彼は奇跡的な復活を遂げる。 ”病を克服して”(というよりは、むしろ病と上手につきあえるようになって、なのかもしれないが) 彼らのエピソードを知るにつれ、僕はその演奏に興味を持つのだけれど、その一方、ちょっとした疑念を抱かずにはいられない。 「それで、フジ子さんのショパンは、そんなに素晴らしいの?」って。 残念ながら、僕は音楽の技術的な面には全然詳しくない。 フジ子・へミングが弾くショパンが上手いのはわかる。 しかしながら、「じゃあ、どのくらい凄いの?」と問われたときに、うまく返事をすることができないのだ。 たとえば、野球にあまり詳しくない人なら、近くの公園の草野球で松井とどこかの球団の2軍選手が同じユニフォームでプレーしていれば、「どっちも凄く野球が上手い人」というようにしか評価できないのではないだろうか?まあ、これはやや極端な例えかもしれないが。 芸術というやつは、野球みたいに「結果が出る競技」よりも、基礎知識がない人にとって、「どれが凄い作品か?」を判定するのは難しいと思われる。その判断基準は、受け手の感性に委ねられているものだからだ。 「だって、フジ子は、耳がほとんど聴こえなかったのに、ピアニストとして活躍してるんだよ」 こういう先入観が無ければ、彼らの演奏はどのくらい評価されるものなのだろうか? もちろん、彼らは自分の身に起きたトラブルを売り物にしているわけではない。 だが、プロモーターとしては、興行的成功のためには、そういうサイドストーリーを前面に打ち出すことだってあるはず。 「障害を克服して」とか「不幸な家庭環境に負けずに」とか「有名な画家の30億円の絵」とか、芸術というのは、そういう先入観から逃れられない運命にあるのだろうか? 「フジ子のショパンは素晴らしい」とか「ゴッホのひまわりに感動した」っていうんじゃなくって、「素晴らしい演奏だと思ったら、フジ子・へミングが弾いていたショパンだった」とか、「感動した絵の作者を調べたら、ゴッホだった」なんていうような感性が自分にあれば、といつも思うのです。 しかし、現代社会では、「まず情報ありき」なので、そういう感性を育てるのは難しい。 もちろん、物理的には、昔よりはるかにいろんなものを聴ける機会は増えているはずなのですが。 ひょっとしたら、僕が知らないだけで、フジ子よりももっと素晴らしい演奏家だけど「ドラマ性がなくて売れない人」とか、大勢いるんじゃないかなあ。 ...
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