マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

都会暮らしの憂鬱、田舎暮らしの憂鬱。 - 2003年10月11日(土)

長年の友人が、専門学校を卒業して東京に就職するという。
彼女は、大学卒業後東京で働いていたが、資格をとるために一度地元に戻って学校に通い、そしてまた来年から、東京で働くことにしたということだ。

僕は都会暮らしの経験がないものだから、都会のよさというのはよくわからない。
ときどき九州人にとっての都会である博多の街に行ったりすると、
あまりに人が多いし、通りにはいろんなものを配る人がいて、
それを無視して歩くだけでもけっこう疲れる。
車の運転をしていると、タクシーやバスの強引さや車線変更の煩わしさに閉口する。

そんな話を友人にしていたら、友人は、こんなふうに答えた。
「そうですねえ、煩わしいことも多いし、物価も高いけど、
電車での移動は慣れれば便利だし、それに、いろんな選択肢が広いんですよね」

「選択肢、って?」

「たとえば、勤務の関係で、平日にひとりで休みになったりしますよね。
田舎では、女ひとりで平日にできることって、買い物とか家事くらいしかないでしょう?でも、東京だと、単館ものの映画を観に行ったり、名画座で旧い映画をひとりで観てもいいし、展覧会に行ってもいい。お昼ごはんに女ひとりでそのへんの店に入っても、全然違和感がないんですよね。」

 映画館やレストランなら、田舎にだってある。
 でも、確かに、そこに女の子がひとりでいることには、やっぱり違和感を感じてしまうのだ。そこに、人々はなんらかの「理由」を求めてしまう。

 東京というのは、選択肢が広い街だと、この間研究会で行ったときに思った。
 さまざまなコンサート、演劇、展覧会や個性的な店。
 電車の中吊り広告を見ているだけでも、そんな気がしてくる。

 でも、そういう物理的な面だけじゃなくて、精神的にも、選択肢の広さの要因があるのだろう。

 そういうふうに考えると、都会人=孤独、というような考え方って、偏見だなあと思う。隣近所の評判に縛られる田舎暮らしにだって、いやなことはたくさんある。
 「うちは代々家老をしておりまして…」

 それで、いったい僕に何をどうしろというのか?
 田舎は、テレビ局のクルーには優しいが、余所者には冷たい。

 結局、孤独も自由も、どこにでもあるものなのかもしれないし、どこにもないものなのかもしれない。
 僕のような転勤族の子供で、今も転勤ばかりしている人間にとっては、なんとなく、どこに行っても自分がはみ出してしまったような気がするだけで。

 田舎をバカにする都会人も、都会を敬遠する田舎者も根は同じ。
 一見自分の環境にプライドを持っているようで、実は自信が持てない。
 せめて自慢でもしないと、やってられないのだ。
 
 そういうのって、威張ってばかりいる医者みたいだな、とふと思った。

〜〜〜〜〜〜〜

 お知らせ:「いやしのつえ」絶賛公開中!



...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

Mail Home