記憶のBGMとしての「ポップミュージック」 - 2003年07月29日(火) if→itselfさんの2003/07/25【POP】を読んで、なんとなく「ポップミュージック」の「ポップ」の意味が解ったような気がした。 もちろん、学術的に正確な意味ではないだろうけれど。 僕にとっての思い出の音楽というのは、大概なんらかの実生活の記憶とともにある。それも、たいそう深刻なものから、バカバカしくなるようなものまで。 片思いの女の子に告白して降られた夜、彼女を送って帰る途中に、カーステレオから「ロマンスの神様」が流れてきて笑い泣きしたこともあったし、槙原敬之の「ズル休み」を聴いて、涙が止まらなくなったこともあった。 スピッツの「ロビンソン」やMr.Childrenの「イノセント・ワールド」は、外科実習の手術見学のとき、誰にも聴こえないような声で、何度も何度も繰り返して歌っていた。実際、その当時は手術の様子を見ても何がなんだかわからなかったし、ヘタに動き回って手術器具や先生たちに触って、「不潔になる」(雑菌がつく)といけないから、僕たちは手術室に何時間も立ちっぱなしで、手術を「見学」していたのだ。何を学んだかといえば、「手術って、体力いるなあ」ということくらいだったが。 いまでも「ロビンソン」や「イノセント・ワールド」を聴くと、手術室を想い出す。 「真夏の果実」は、ずっとリピートしていた時に車をぶつけたので、どうも車の中で聴く気になれないし。 オザケンの「ラブリー」を聴くと、彼のコンサートで観客みんなで投げた、七色の紙吹雪の記憶が蘇る。僕はそれを2階席から観ていたのだけど、あれは本当に、幻想的な風景だった。 他にも、ある曲を聴いて、その曲がカラオケの持ち歌だった人のことを想い出すこともある。 もう、何年も心のメモリから取り出されていなかった人のことを。 僕は、ifさんの言うところの後者の「懐かしさ」を感じることが圧倒的に多い。 たぶん、音楽が好きというよりは、自分と自分の記憶が好きなんだろうなあ、という気がする。 ...
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