社民党と日本国憲法の危険なセットメニュー - 2003年07月28日(月) 歴史は流転する。 今、土井委員長の社民党は、まさに風前の灯火だ。 彼らは北朝鮮を正当化し、秘書給与を掠めとり、世間の非難を浴びている。 まあ、口でものすごく正しそうなことを偉そうにいっておきながら…ということで、反感を買っていたのだろうな。 僕だって、辻元元議員の「パフォーマンスとしての国会での質問」には辟易したものだし。 でも、最近ちょっと怖いと思うことがある。 どうも、日本では「憲法を護る」という考えが、薄れてきているのではないか、ということだ。 「平和憲法なんて、所詮社民党のオバサンたちが言うことと同じ、理想主義の寝言にすぎない」って。 太平洋戦争後の日本は、この憲法を頑なに護ろうとしてきた。 解釈をかぎりなく歪められたりしながらも、理念として「平和憲法は大事なものだ」という考えは、日本人に脈々として伝えられてきたのだと思う。 少なくとも、僕が子供だった頃、10年から15年くらい前の日本はそうだった。 時代は変わった、というより、変わったのだと多くの日本人は認識している。自分たちが攻撃すること、されることに対して、「やられたらやりかえす」もしくは、今の自分たちが立っている世界を守るために、戦争だってやらざるをえないことがあると考えている人は、劇的に増加しているだろう。 それは、戦後の「民主教育」の矛盾や小林よしのり氏をはじめとする言論人の語る「世界常識」と「日本人の誇り」が、浸透してきた成果なのかもしれない。 そして、国際貢献として、自衛隊はイラクに派遣される可能性が高くなった。 僕は思うのだ。果たして、日本人が血みどろになった末につくられた「日本国憲法」というのは、本当に間違っているんだろうか? 殴られても殴り返さないなんて馬鹿げている、とか、アメリカに押し付けられたなんて言う人が増えたけれど、少なくとも多くの日本人はこの憲法に敬意を持っていると思う。「持っていた」とすべきなのかな。 でも、考えてみてもらいたい。日本を戦争ができる「普通の国」にしようと訴える人たちは、みんな年寄りや政治家や文化人だ。 彼らは、もし日本が戦争をすることになっても、まず最初に前線に駆り出されることはない。僕が小林よしのりの「戦争論」に対して、なるほど、と思いながらも違和感を感じるのは、たぶんそのことなのだ。 兵士たちは、みんな自分がアムロやシャアになる夢をみるが、たいがいの兵士は、「ジャマだ!」とガンダムに蹴っ飛ばされてやられるジムとかボールのパイロットだ。 待てよ、モビルスーツに乗れるだけで、確か相当のエリートという設定だったな、そういえば。ジムにだって、普通乗れやしない。死ぬのは僕らだ。 「憲法を護れ」と叫んでいたオバサンたちが、勘違いした人々であったとしても、彼らが勝手に護ろうとしていた「日本国憲法」というのが、間違った理念だという結論は誤っている。 ヘンなファンがいたからって、そのアーティストの曲がすべて無価値だってことにはならないはず。 確かに、時代にには適応しきれないところもあるけれど、それは適宜、議論を尽くして変えるべきところは変えていけばいいのだ。何も、あのオバサンたちと運命を共にさせる必要などない。時代は変わってきているが、それでも、現代社会が朝鮮戦争時や冷戦時代、ベトナム戦争の時代よりも遥かに危険な時代とは、僕には思えないのだ。 むしろ、危険だ危険だ、と煽られることによって、僕たちは必要以上にパニックに陥ってしまっている。 「日本国憲法」ができた当時の日本人は、腑抜けだったわけじゃない。 その時代の人々は、戦争の痛みを実感して、「例え他の国に殴られて、仮に殴り殺されたとしても『平和』を護ろう」と覚悟していたのだ。 現代に満ち溢れている「正論」とやらの尻馬に乗っているだけの人たちと、どっちが「勇気」があると思う? ...
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