「敏腕記者」≠「人格者」 - 2003年05月05日(月) 毎日新聞の記者が、空港に爆発物を持ち込んだという事件について、毎日新聞の上層部は、「新聞記者という職責にありながら」という謝罪をしているようだ。 この記者は、今まで報道関係の賞を受賞している「敏腕記者」だったそうなのだが… この報道をきいて、「記者でありながら…」というのに、僕はちょっと違和感を感じざるを得ないのだ。 大学時代に、弓道をやっていた。いわゆる「精神面を鍛えられる武道」ではあるのだが、僕が自覚したのは、いかに自分の精神が揺れやすいか、ということだけだった。 練習では適当でも本番では当てまくるヤツもいるし、もちろんその逆もいる。そして、成績を残せる人は、少なくとも「いいヤツ」よりも、我が強いやつとか、プレッシャーに強いヤツ。 やっぱり、向き不向きはあるし、別に精神が鍛えられるわけじゃないのだ、あれは。大事なのは、人柄の善し悪しよりも、精神の揺れの少なさ。 ところで、記者という職業、とくに戦場で活躍するようなスクープ記者に必要な要素とは何か、それは、常識よりも好奇心であり、傲慢なまでの自尊心、功名心だと思う。 弾に当たった子供をみつけて、助ける前にカメラを向けるような人間こそ、スクープ記者として適正があるのだろうから。 だから、有能な記者であるからといって、別に人格者であるわけはないし(むしろ、違うのが普通だと思う)、記者という職業でありながら…とかいうのが、果たして妥当なのかどうか。 記者として優秀であることと人格とは、少なくともスクープ記者と呼ばれる種類の職種では、まったく関わりがない。 だからといって、彼のやったことは無責任極まりないという事実には何も変わりはないし、亡くなった係官は彼が殺したとしか考えられないのだが。 ...
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