花の名前 - 2002年06月10日(月) 花の名前〜Name Of Love〜 朝、出勤途中に見る月が好きだ。 はかなくて、透き通って、触ったらきっと…壊れる。 一ヶ月のうち、たまにしか見られないそれを、いつものように眺めながら歩いていた、その朝。その朝彼女に出会った。 花が咲いていると思った、と言ったら笑われるだろうか?あと、9ヶ月と少しで40になろうとしている。彼女のことをそう思ったとはいえ、本当は花の名前なんてほとんど知らない。たんぽぽ、ひまわり、夏の朝に咲いているあの、ラッパのような花は「朝顔」だっただろうか?きっと、妻や子供の方がずっとたくさんの花の名前が言えるだろう。 けれど、目の前に咲いたその花は、誰の口から発音される名前もふさわしくない気がした。年は…30代前半くらい、細く伸びた手足、肩に触る髪。 彼女はバス停の前に、立っていた。 自分も同じバスに乗るのがわかっているのに、いつものように後ろに並ぶことが出来ないことに驚いた。 近寄ってはいけない、けれど、そばで何かを感じとりたい。 相反する思いが交差して、彼女の背中を目の前にするのを躊躇ったのだ。 それでも、後方から別の足音が近づいて追い越されそうになったとき、駆け出すように足が前に動いた。 早い話が好きになったんだ。 いや、そんな安っぽいもんじゃない、もっと別な言い方があるはずだと言葉を捜すけれど、辿り着く言葉は同じで。好きになった?好きになっただって?自分の年がいくつか、知ってるか?あと半年で40だ。子供の年はいくつだ?あと3週間で4才になる。今どき、高校生だってこんな簡単に恋に落ちたりしないだろう。落ち着いて…、明日になったら忘れるはず。何度も自分に言い聞かせて、夕方、同じ道を逆から歩いていく。 次の朝。 ・・・次の角を曲がったら、バス停が見える。 曲がるのに、少し勇気がいった。 今日になれば、忘れているはずじゃなかったのか。 自分に向けた皮肉を打ち消すように、勢いよく角を曲がった。 その花は、やはりバス停に咲いていた。 毎日、少しずつ彼女を知っていく。 彼女の降りるバス停。 彼女の好きな色。 風が吹いたときだけ、運んでくる香り。 雨の日は少し遅れてくること。 まっすぐに伸びた姿勢の良さ。 日ごとに、彼女を知っていく。 そうして、自分の子供の誕生日をもうすぐ迎える日、彼女の声を聞いた。 「おはようございます」 彼女が緩やかに微笑んで、また、車道に視線を戻した。 ドキドキした。返事なんて、できやしない!!今どきの学生の方が、こんなとき上手く会話が出来るだろうに。けれど・・・彼女がバス停に表れるようになって、鏡を見ることが増えた。自分は「おじさん」だということを嫌というほどわからせてくれた。魅力なんてかけらもなくて、しがないサラリーマンで、後輩にも先輩にも気を使う小心者だ。彼女は、きっと自分のことを朝、同じバス停を利用している顔見知りのおじさんだと、思っているだろう。そう思うと、胸が痛んだ。胸が痛む自分を、笑った。「おじさん」で当たり前じゃないか。それ以外に何があるというのだろう。彼女だって、いつものバス停を降りれば、いや、このバス停に来るまでだって自分の知らない彼女が確実に存在している。夫がいたり、独身なら付き合っている人くらいいるだろう。 いつも、そこまでで考えることは止めていた。返事の代わりにぎこちない微笑を彼女へ送って、何気なく空を見ると銀色の月が浮かんでいた。 その時・・・・。 「ぱぱぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜」と辺りに聞き覚えのある声が響いた。 声に振りかえると、妻と子供が角を曲がって走ってくるところだった。妻は子供を追いかけるのに必死、という感じで子供の後を小走りについてくる。一瞬、無意識のうちに彼女に視線を走らせた彼女も、声につられて振りかえったところだった。 自分に向かって、転びそうになりながら走ってくる子供を彼女は微笑んで見ていた。彼女と視線が合う。 「お子さん、ですか?」 「はい」 短い会話の後、息子はすぐそばまで来ていた。 駆けよってきた息子を腕を伸ばして抱き上げる。 数秒後、息を切らせて追いついてきた妻が言った。 「どう…して・・も、今、言いたいって…聞かないもんだから…」 「あのね、ボク、ばばと同じのが欲しいの。お誕生日のプレゼント!!」 妻が言い終わるか終らないかのうちに、息子がそういって指さしたものは、出勤用の茶色い鞄、だった。 「ボク、それ持って、お仕事行く〜〜。ぱぱとおんなじ!」 バスが、角を曲がってくるのが見える。 息子を妻に手渡しながら、目の前に止まったバスに乗り込む彼女の後ろに自分は続いた。 「ね。ぱぱ。ゆびきり〜〜〜〜」 バスのドアが閉まる瞬間、息子に小指を出して見せた。 そのまま、バスが動き出す。 小指を出している自分は、バスの中でかなり浮いていたけれど、恥ずかしいとは思わなかった。揺れる車内を歩きながら、座席に座る彼女の横顔をそっと見る。たぶん、ずっと好きだろう。たぶん。ずっと・・・。多分。。 これからも。 胸は痛むけれど、もう、痛みに振りまわされることはない気がしていた。 考えて見れば、彼女は初恋の人にちょっと似ていた。 息子が走ってきた瞬間、彼女の反応を盗み見てしまった自分。 どんなに疲れていても、バス停に向かう時胸が弾んでいる自分。 家族を、今自分が背負っているものを、すべて忘れてしまっている自分。この面映い感覚は、一体何年振りの初恋だろう? この花に名前をつけよう。ふいに、思った。僕だけの、花の名前。僕。自分のことを、そう呼ぶのは何十年ぶりだろう。 僕の恋の名前。 その名前は・…。 -------------------------------------------------------------------Fin -
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