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2024年09月07日(土) 蒼天抗露(エストニア・タリン2日目)

 翌朝の朝食も同じ会場。会場には、大きなガラスの容器に入った牛乳が置かれていた。やはり、冷たい牛乳は朝にしか飲まないものらしい。そして、あの牛乳サーバーにあの後置かれた「使用不可」を意味すると思われる札は撤去されていた。昨日はさして気にも留めなかったが、牛乳サーバーのすぐ隣に給茶機が置かれていることにも気づいた。多分、あの牛乳サーバーは、コーヒーなり紅茶なりをカップに注いだ後に、ミルクコーヒーなりミルクティーにするためのものだったのだ。それならば、私が昨夜もし、私がコーヒーを注いだカップに、「牛乳サーバー」から少量の牛乳を注いでいたとしたら、私はきつい剣幕で注意されずに済んでいたのであろうか?

 さて、共産時代に幹部を接待する為に建てられたというこのホテルの最上階には、当時秘密警察KGBが使った秘密の部屋というのがあり、公開されている。スタッフの説明付で事前申込制。添乗員氏にお願いし、フロントで申し込む。17ユーロ。日本円換算2500円。博物館としてはかなり高価な入場料だ。

 ロビー10時集合なので、それまでの間、今日行く予定の場所までのバス乗り場と時刻の確認の為、地下のバスターミナルを下見することにする。バスは約20分おきに出ていることが分かったが、行先として書かれている地名が、ガイドブックには見当たらない。その地名の場所が目的地より先にあるのならいいが、もし手前ということであれば、途中から歩かなければいけないことになる。

 バスターミナルに隣接して食品スーパーもあった。まだ時間があるのでお土産を買うことにする。レジを見ると、セルフレジと有人レジがあり、有人レジを選ぶ。女性レジ員、私の首元を見て、にやけた笑顔で「ティンティン」と言う。ウクライナ民族衣装に特有の、首元から伸びた紐の先にポンポンの付いた飾りが可愛いと言っているんだろう。で、その真意はおそらく「(男のくせに)可愛いらしい飾りね。」ということだろう。知らないはずないんだけどなと思いつつ英語で、
「これはウクライナ民族衣装。私はウクライナを支援しています。」
と言った。店員は笑顔だった。理解してもらえたらしい。ホテルチェックアウト後にもう一度このスーパーに立ち寄って、お土産を買い足そうと思うが、その際、またこの店員がいてくれればいいな、と思った。

 さて、ホテル最上階のKGB博物館、20人あまりがロビーに集まった。説明は英語(ほかに、別の時間にエストニア語によるツアーもあり)。さて、この英語が、所詮、店で買い物をするのが精一杯の私の英語力では、固有名詞くらいしか聞き取れず、ほとんど何を言っているのか分からなかった。

 展示自体は、当時の共産趣味満載のポスター類、室長の部屋、監視員の仮眠ベッド、盗聴器やガスマスク等の機器類、あとは、最上階からの市街の展望くらいしか見るものがなく、高額な入場料の割には正直、期待外れの内容だった。が、見なかったら見なかったで、せっかくの機会に何故見なかったんだろうと後悔した筈だから、それもひとつの思い出だろう。

 ガイドの丁寧な英語の説明のおかげで、終了したのは11時過ぎ。(帰国便に乗るための)ホテルのロビー集合時間は午後4時。先程せっかくバスターミナルに下見に行ったが、不確かなバスではなく、タクシーを使うことに決める。ホテルの玄関先には数台のタクシーが客待ちをしている。「地球の歩き方」に掲載の地図を運転手に見せ、ペンで印をつけた場所に行ってほしいと英語で言う。

 実は、目指す場所の正確な位置は私も知らない。「地球の歩き方」には掲載されていない。印をつけた博物館の隣に公園があり、その中にあるとネット上の書き込みで読んだだけ。

 博物館はこの階段の先だよと運転手に言われ、タクシーを降りる。ピンクの外壁の博物館は、海沿いの道路から階段を上った見晴らしの良い高台にたたずんでいた。時間に余裕があったらこの博物館に立ち寄ってみてもいい。でも、最優先で見たいのはここじゃない。隣の敷地の公園ってどっちだ?博物館正面に対して右か左か?とりあえず右に歩いてみる。タクシーが通ってきた方向。

 やがて、「歌の広場」と呼ばれる芝生敷の美しい巨大屋外スタジアムのある公園に行きついた。多分戻りすぎ、ここじゃない。「歌の広場」自体は歴史的には重要な施設である。リトアニア、ラトビアもそうだが、万人単位の市民がここに集まり、歌を歌うという伝統は、民族意識を高めることにつながり、それはソ連からの独立という悲願に寄与したはずだ。写真を何枚か撮って、来た道とは違うルートで博物館の方向に向かう。「歌の広場」とひとつづきの芝生の公園や、閑散として使われていない駐車場、工場の敷地の裏庭?のような場所を通過したが、とうとうそれらしき公園を見つけられないまま、ピンクの外壁の博物館まで戻ってきてしまった。

 見つからなかった。優に30〜40分は歩いた。すでに時間は正午を回っている。博物館正面向かって左側を探すか?視線の先に、コンクリートのオベリスクのようなものが見えた。あそこ、公園?ゆるい坂道で高くなっていて、今いる場所からは分からないが、公園なのではないか?

 200メートルほど続くゆるい坂道を登っていくと、芝生と、オベリスクのほかにも、コンクリートのオブジェがいくつか見えてきた。3つがワンセットになって芝生に佇むコンクリート製の十字架。これは、間違いない。この公園は慰霊の場になっている。ということは、この公園内にきっと目指すオブジェがある!

 緩やかな起伏の先に、黒い塀が現れた。この塀の先は墓地にでもなっているのか?それとも?

 行ってみると、塀の先は単に駐車場だった。そして、塀自体に文字がたくさん刻まれている。

 これが、ネットで観光名所に関するコメントに書き込みされていた、シベリアに連行されたエストニア人に関する慰霊碑か?説明文には英語もあり、確かにそうだと分かる。

 遠くからではわからないが、足元には棺を模した黒御影石の長方形の石が一列に並び、石にはソ連の地図が刻まれ、一点に印がつけられ、さらに人名らしきものが彫られている。間違いなく、印のついた場所で命を落としたエストニア人を示した慰霊碑だ。直線状の黒い塀は、さらに同じ高さで、擂鉢状の地形に向かって続いている。そして、そこには、目指すものがあった。

 塀にブツブツとなにやら粒状のものが多数張り付いている。近づいてみると、そのひとつひとつは、蜂の形をしたオブジェだった。ついに辿り着いた!半年前、その意味とともに新聞で紹介されていた「蜜蜂のオブジェ」、石碑程度のものを想像していたが、まさかこれほど壮大なオブジェだったとは。差し渡し数十メートル、高さ10メートルはあるだろうか?擂鉢の底に観客席のように並べられた石のひとつに腰掛け、しばし感慨にふける。

 塀の上部に、ESTI 1941-1990 と書かれている。エスティとはエストニア、1941−1990とはエストニアがソ連に併合されていた期間。その右側はcommi-で始まる綴り。英語のコミュニズム(共産主義)に相当する語だということは容易に想像できる。エストニア語はフィンランドと同様、印欧語族に属さない言語ではあるが、「共産主義」のような概念語は、英語(もしくはラテン語)からの借用語であるらしく、私にも意味が分かった。

 さて、擂鉢の縁の部分に植栽としてりんごの木が植えられていた。こんな慰霊の地で、こんなことをして申し訳ないが、赤く熟していて、しかも、地面には食べ手がいなくて落ちた実がいくつもある。近くに人がいないので失敬。野球ボールよりも一回り小さく、牡丹杏程の大きさ。小さいがみずみずしくて美味い。

 やがて中学生くらいと思われる学生の一段がやってきた。授業の一環だろうか?

 帰りは、バスではなく歩くことにした。海沿いで、昨日までよりは暑さも少し和らいでいるし、海を眺めながらの広い歩道を歩くのは気持ちよさそう。それに、たとえ時間がかかっても、バスを乗り間違えて時間をロスするよりも確実。ピンクの博物館に立ち寄る余裕はない。

 ゆるやかにカーブを描く海岸線の先に、尖塔がいくつも見える。中国語ではタリンに塔林の字を当てるが、まさしく言い得て妙だと実感する。海はほとんど波がなく、ところどころ岩が海面に突き出しているが、遠浅で、底が透けて見える。

 途中、かつての露帝国が立てた石碑を通過する。石碑本体を取り囲む石のフェンスには、あの醜悪な双頭鷲の紋章が、壊されることもなくそのまま刻まれている。

 砂浜の浜辺で、寝そべって日光浴をしている人々がいる。中学の美術の教科書に載っていた、フランスだったかの画家の作品そのままの構図。

 自転車に乗った人に鈴を鳴らされた。地面を見ると自分が歩いている道は自転車専用道。完全な歩行者自転車分離方式だった。歩行者用の道に避ける。
 
 その後、港湾地域を通過し、観光客が多い旧市街地に到着したのは2時半だった。1時間強。

 昨日、ツアーでは行かなかった観光名所「ウクライナ教会」を目指す。この服で建物に入ったら、歓迎してくれるだろうか?「日本から来ました。ウクライナに栄光を!」と言ったら喜んでくれるだろうか?

 ところが、ガイドブックで示された場所に着いてみると、建物は工事中だった。残念。最後に朝のスーパーにもう一度立ち寄ることを考えると、時間的に、新聞記事で、「蜜蜂のオブジェの意味」を説明してくれていた館長のいる「ワバム博物館」は無理。

 なら、旧市街地の「城壁」の上に上る観光が妥当。城壁の下に行き、まるでお化け屋敷の入口みたいな薄暗い受付で、「大人一人。いくら?」と英語で聞くが、聞くまでもなく傍らに4ユーロと書いてあった。石の螺旋階段を登り城壁の上へ。見晴らしもいいし風も気持ちいい。誰が始めたのか、手すりにリボンが結び付けられている。結ばれますようにとのおまじないだろう。この時代に生きる自分の性(さが)で、青と黄色がセットになって結び付けたリボンがないか探す。いくつかあった。きっとそれらは、ウクライナの平和を願って結び付けたものに違いない。

 一度ホテルのロビーに戻り、既にロビーに集合している人に、「ちょっと買い物してきます。集合時間20分前を目安に戻ります」と伝え、朝買い物をしたスーパーに再度足を運び、追加でお土産、それに、飛行機を待つまでの間に食べる軽食、それにビールを買う。そういえばまだ、昼飯は食べていなくて蜜蜂オブジェのところの植栽のりんごしか口にしていない。残念ながら、レジの店員は朝とは違う人だった。

 予定通り集合時間20分前にロビーに戻る。ツアーバスに乗り、今しがた買った缶ビールのふたを開ける。もっと効率的に回れば博物館を見る時間があったかもしれない。だが、蜜蜂のオブジェの実物を見られて、そしてそこが予想を超える「聖地」だったことで、悔いはない。終わった。これであとは帰国するだけだ。満足の行く旅だった。空港までは20分。バスを降りる前に飲み切らねばと、500㎖のロング缶ビールをぐいぐい飲み切り、ほろ酔いで空港到着。




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