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2024年09月05日(木) |
蒼天抗露(5日目)ラトビア・リガ(下) |
まず、ギルド商館のすぐ隣の「占領博物館」に足を運ぶ。ガラス張りの1階外壁には、戦場でウクライナ兵士を撮った写真パネルがいくつも貼られている。入ろうとしたら様子がおかしい。出入口付近に人が滞留し、警報音が鳴り響いている。入口の改札システムのトラブルらしく、復旧まで入館できない状態らしい。後回しにして、「1991バリケード博物館」を目指す。
1991バリケードとは、民主化や独立を求めて広場に集まったラトビア人をソ連軍が鎮圧しようとした事件のこと。ひとことで言えば「天安門一歩手前事件」。幸い武力鎮圧には至らず犠牲者も出なかったことは当時新聞でこれに関する記事を読み漁っていたので覚えている。
多分当時の参加者と思われる初老のおじさんがひとりで受付に座っていた。無料だが寄付金箱が置かれており、小銭を入れた。ジオラマに仕立てられた当時のバリケードの様子や、バリケード内の様子を実物大で再現した部屋、ラトビア全土から参加者が集まったことを示す、市町村別抗議参加人数を示す地図などが展示されていた。当時の風刺画には、「鎌槌マークの戦車に乗った豚」なんてのがあった。今、露宇戦争で露兵が豚の姿で描かれているイラスト等を目にすることがあるが、既にこの当時から豚の姿で描かれていたんだということを知った。
何故当時のソ連はバリケードに戦車を突入させて鎮圧しなかったのだろう?やはりそれは天安門事件の後中国が世界各国から経済制裁を食らっているのを横目で見て、鎮圧に踏み切った場合の経済制裁を恐れたのだろう。世界は繋がっている。
次に足を運んだのが「軍事博物館」建物は石造りの寸胴な円塔。昔の火薬庫だったものを再利用したとある。入館無料。
入るとまず広間に置かれているのは、銃痕だらけでボロボロの車両。説明を読むまでもなく分かるが、ラトビアからのボランティアが物資を積んでウクライナの前線に行って、帰ってきた車両。続く展示室には等身大兵士パネルと良宇国旗。読まなくても分かる。ラトビアから参加した義勇兵で落命した者。次の展示室はNATOの紹介。
そしてその後は戦史とそれにまつわる資料の展示。
10数コマのイラストに簡単な説明文がついた手書きの「漫画」のようなもの。説明文は読めないのだが、これはシベリアに送られたラトビア人の抑留体験記だと分かる。日本で似たような場面を描いたものを見ているから。
そして、「地球の歩き方」で紹介されていた、「寄せ書きされた日の丸」があった。大戦後、ソ連占領下の樺太に置かれた収容所(樺太のどこなのかまでは記載されていない)で、日本人抑留者から託された戦勝祈願の日の丸を、荷車に積んだ麦の山に忍ばせて密かに持ち出し保管していましたという由緒の品。ソ連という共通の敵が奇しくもつないだ日本とラトビアの不思議な縁。
さて、例によって大きく育った樹木でいっぱいの広い公園を伝って、あの場所を目指す。木陰のベンチでパンをかじる。公共の施設の中庭に、10数本ものウクライナ国旗が林立しているのが目に入る。なんでそんなに林立させているのかと思って近寄ったら、その場所が、露大使館の窓からよく見える位置であることに気付いた。意図は良く分かった。素晴らしい。そして道路沿いにはネットで見たことのある抗議の掲示物の数々。「Put In」と記された首吊り台も、古びてしまっているが残っていた。ただ、リアルタイムで抗議している人を見かけなかったのは残念だった。
側面の別の建物の壁に掲げられた、髑髏プーチンを写真に収め、次の目的地KGB博物館へ。実際にKGBの建物として使われていた建物を再利用したもので、交差点にあるくせに、入口が通用口みたいな簡素な造りで、本当にここが入口?としばらく建物の前をウロウロしてしまった。通常展示と、事前予約者だけが見ることが出来るヤバい展示(拷問室とか処刑室とか)があるらしく、予約なしで行ったため、展示自体は物足りないと感じた。
KGB博物館から独立記念碑を経由して昼間トラブルで入れなかった占領博物館に向かう。独立記念碑、塔の先端で女神が手を頭上にかかげている姿が「地球の歩き方」には乗っているが、台座には、首に鎖が巻き付いて苦悶の表情の男達の像が彫り込まれている。言うまでもなく台座の男達が象徴しているのは独立に到るまでの自由への渇望、先端の女神が象徴しているのは勝ち取った栄光だが、現地の人の説明によると、話はそこで終わらない。女神が両手を掲げているポーズは、両手で乳児を持っていることを暗示しており、この自由と独立が子々孫々まで伝えられるようにとの願いを込めているとのこと。
この旅行中、私が着ていた服は、それぞれネットで戦時下のウクライナの縫製業者から買ったヴィシヴァンカ(ウクライナ民族衣装)(×2)及び、ヴィシヴァンカ風の刺繍のTシャツ(×4)。見る人が見れば「ウクライナを支援してます」とアピールしながら歩いているようなものだ。公園のベンチで一休みしていると、隣のベンチの女性が立ち去り際に私を見て「スラバ ウクライニ」(ウクライナに栄光を)と呟いた。反射的に合言葉「ヘロヤム スラバ」(英雄達に栄光を)と返す。ただ、私は彼女がどことなくよそよそしく、無表情なのが心にひっかかった。露宇戦争の余波で、人口わずか200万の国に数万のウクライナ避難民。彼等の存在は物価を押し上げ、逆に賃金水準を低下させる。その状態が既に2年超。彼女はウクライナ支援の必要性は理解しつつも、「ウクライナ支援疲れ」の状態にあって、それが、「スラバ ウクライナ」と私に声をかけながらも、無表情な態度になって表れたのではないか?
さて、占領博物館、トラブルは解消しており、すんなり入館。占領とは1940年のソ連による併合を指す。壁に掲示されているのはそれ以降にシベリアに送られた人の数。日本人でのシベリア抑留者と比べ、絶対数では少ないが、群馬県ひとつ分ほどのこの国の人口を考えればものすごい人口比でシベリアに送られたことが分かる。
そして、シベリアに送られた者達の経路。当然ながらベクトルが逆。親を連れ去られた?子供の絵も涙をそそる。シベリアで樹木伐採に使われた二人用大鋸。全く同じものを日本の博物館で見たよ。そしてここにも「日本」そのものがあった。漢字で氏名が書かれた布製眼鏡ケースとともに展示されている眼鏡。収容所で目が不自由なラトビア人捕虜が、食糧と交換に日本人捕虜から、かけていた眼鏡を譲ってもらったという説明。
実物の白樺の枝が飾られている。私には何故展示室に白樺の枝が飾られているのか、それが何を象徴しているのか、解説を読むまでもなく分かる。平地にいくらでも白樺が生えているこの国においても、日本と同様、白樺はシベリアの記憶の象徴となっているんだなということを知った。
壁に掲げられたラトビア国旗と、折れた旗竿にぶら下がる旧ソ連旗。壁一面に貼られた来館者からのメッセージ。付箋紙とペンが置かれていて、自由に記載して貼ることが出来る。いろんな国の人が書いていて、ウクライナを支援する内容が目立つが、中には「FREE TIBET」とか、「自由香港」とか書かれたものもある。占領博物館とは単に占領の記憶を語り継ぐ施設ではなく、独裁・抑圧に抵抗し、民主主義と自由を求める人々に勇気を与える施設だった。
ああ、こんなメッセージボードがあるなら事前にメッセージ考えてきたのに。 しばらく考えたが、考えているうちに時間が過ぎてしまうので結局何も書かずに館を後にした。
さて、目の前の道路を走る路面電車(トラム)に乗る。川向こうにはラトビア人が「恥の塔」と呼ぶ「ソ連軍勝利記念塔」跡地と、かつてシベリア送りされたラトビア人が詰め込まれた「貨車」がある。その後歩いてホテルに戻ればいい。時間はまだたっぷりある。
添乗員が渡してくれたメモには、系統表示1番又は5番に乗ると書かれている。信号のない片側3車線の交通量の多い車線を走って横切り、車線中央の島状の電停に辿り着く。着いてから気付いたが、実は道路の中央の電停には地下道が通じていた。
「こっち向きに走るトラムがきっと下り線(川を渡る方向行き)と思って乗ったところ、トラムは何故か川から離れる方向に進んでいく。きっと橋の高さに達する為に一度回り込んで助走しているに違いない。そう都合よく解釈するも、ついにトラムは中央駅前へ。うーんどうしよう。このまま乗り続けたら、時間はかかるけどやがて折り返し運転となるに違いない。
路線図を見ると、かなり郊外まで運行されていて、折り返すまで何十もの電停があり、非現実的だと判断するに至る。もう一度乗り直すにはまたカードを売店で買わねばならない。「せめて近くに売店のある電停まで乗って、覚悟を決めて一度降りよう。」降りてから電停一駅分歩いて売店に辿り着き、再度1回券を購入。確かに今回は1.5ユーロ。
路線図によればこの軌道上には1番のトラムしか走っていないはず。やってきたトラムの系統番号を確認せずに飛び乗る。今度は順調にもと来た軌道を戻っていく。川が見えた。ああ、やっとこれで川向こうに行ける。ざっと一時間のロスだ。トラムは川と並行に走る。朝立ち寄った中央市場を通り過ぎる。あれ、中央市場って、橋より南で、通過するはずないんだけど、まさかこのトラム、1番系統ではない?やがて、リガ初日にツアーバスの車窓から添乗員が説明していた「スターリン建築」のビルが近づいてきた。地図と路線図を見て位置を確認する。間違いない。今乗っているのは「7番」系統。さて、7番系統は適当なところで折り返してくれるのか?
地図上では小さく見えるが実際は広大な「ラトガレ公園」電停で、下車しようとするほかの乗客が私を手招きした。どうやらこの車両はここで終点ということを教えてくれているらしい。
地図で見ると橋からの距離はおよそ4キロ。もう一度売店でトラム1回券を買ったら、初めから5ユーロの一日券を買った方がお得だったということになる。それはなんか癪だ。もういいや、歩くか。予定通り一時間歩いて橋に辿り着く。夕焼けの橋は絵になる美しさ。川べりに立つビルの最上部が、ビルの幅と同じだけの巨大なウクライナ国旗パネルになっているのを見つけて撮影するも、これは逆光で絵にならず。
橋を渡ると、交差点の手前で「右折車両レーン」に差し掛かる。車両右側通行ではこの場合、車は前方からやってくる。しかし習慣で首を右後ろに向けて車の有無を確認してしまう。思えばこれが最初にトラムで行先を間違えた原因だろう。
北朝鮮が喜んで建てそうな巨大な台形のシルエットのビル。きっとこれは共産建築に違いない。近くまで来たら、ラトビア語で建物名が掲げられている。ラトビア語は印欧語の一種、だから多分この建物はきっと「ラトビア聖書協会」だろう。まあ、単に「図書」の意味かもしれないが。もし、これらの読みがあたっていれば、共産主義の偉大さを表現するために建てられたこのビルが今では、共産主義が否定した宗教のための施設として使われているという最高に皮肉なことになる。(後日、ラトビア人に写真を見せたら、これは国立図書館ですよとのことだった)
シーソーに腰掛けている姿の巨大な銅像がある。何か考え込んでいるような顔つきだが、三角のあごひげに頭頂部まで禿げ上がった顔自体はまさしくレーニンではないか。なんでまだここにいる?誰かこの像を青と黄色のツートンカラーに塗ってしまえばいいのにと思うも、後日ラトビア人にその写真を送ったら、ああ、彼はレーニンではなく、ラトビアの詩人レーニスですよ。とのこと。レーニンらしからぬ考え込んでいるような姿はそのためだったのか。
分岐を右に行けばホテルだが、まっすぐ「ソ連軍勝利公園」沿いを進む。この公園の奥に、目指す「恥の塔」跡地があるはずだ。公園は地図で見ても広大だが、実物は敷地の果てが見渡せないほど広大だ。「リガ」と都市名が記されたオブジェがあり、その先がゆるやかな丘になっている。丘まで行くと、池と、波打つような起伏で歩道と立体交差している自転車専用道。地図上の池は直線状の岸になっているように描かれているが、実物はゆるやかで自然なカーブを描いていてちょっと違う。塔を倒した後、一帯を再整備する際に形を変えたのだろう。そして自転車専用道の起伏はきっと、塔の残骸を埋め立てて造ったものだろう。そう考えた。自転車に乗った市民が気持ちよさそうに走り去っていった。おっと、ここは自転車専用だった。歩行者用の道に降りて、今度は、「貨車」を見つけに再び歩き始めた。
貨車は路面電車ではなく鉄道駅の前に置かれているという。ソ連軍勝利公園を出てその方向に行く。正確な位置を再度確認とスマホを開くも、通信用Wi-Fiが充電切れで、送ってもらった地図を開けない。ローカル線の駅舎らしきたたずまいの建物が目に入った。だが、線路が見当たらない。ということは駅ではない。日本庭園風の公園。例にもれずこの公園も大きい。きっとこの公園の端が線路と駅前になっていて、貨車も置かれているに違いない。公園の端は道路だった。道路の先に踏切が見えればそこまで行く価値はある。しかし何も見えない。とうとう辺りが暗くなってきてしまい、捜索断念。
暗くなったソ連軍勝利公園を、ホテルがあるはずの方角に向けて横断する。樹木が視界を遮り、ホテルの姿は直接は見えない。照明は少なく、ベンチにたむろする数人の若者の脇を、距離をとって通り過ぎる。もし彼等に悪意があった場合、単独の中年男なんて最高の獲物だ。しかも公園名からして、Zに帰属意識を持つ人がいても不思議ではない。そして私はウクライナ民族衣装姿。やがてホテルの姿が見えてきた。時刻は優に8時をまわっていた。ホテル内の売店で缶ビールを買い、昼間半分食べたパンの残りで夕食とした。
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