蜜白玉のひとりごと
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今朝、マル(文鳥)が卵を産んだ。
いつもなら朝起きて私が寝室のドアを開けるやいなやチュンチュンピーピーうるさいはずなのに、今朝に限ってチともピとも言わない。ふーん、そういう日もあるのかと思いながら鳥かごにかけた布を外すと、いつもとは違う下の段の止まり木に止まってじっとしている(普段は上の段のはじっこ)。
おはよう。今日はそっちなの?
返事はない。ただ、じっとしている。具合でも悪いんかな、まあ、寒いからかな、と勝手に解釈をして朝の身支度と人間の朝ごはんを作る。そのあとにマルのごはん(カスタムラックスという名前のいろんな種が入った餌)とチンゲン菜を鳥かごにセットする。と何やら見慣れないものが。
あー、卵。
道理でマルがだるそうなわけだ。鳥かごの床にはチョコボール大の小さな卵が落ちている。落下の衝撃でつぶれて変形している。なんでこんな肌寒い日に卵産むかな。ていうか、これから冬になるんだよ?
マルは毎年、たしかこのくらいの時期から冬にかけて、何回か卵を産む。メス1羽で飼ってるんだからそう張り切って卵を産まなくてもいいのに、なぜか産んでしまう。卵を産むと寿命が短くなるって言うし、それでなくてもカルシウム不足で骨がもろくなったり、卵がお腹にたくさん詰まって死んじゃったりすることもあるんだし、余計なことしなくていいのに困ったもんだ。
はあ。おかーさんはどうしらたマルちゃんに卵を産まないでいてもらえるでしょうね?
一説には、季節どおりに室温を変化させるのがいいらしい。つまり今は秋で、日に日に寒くなっていってるんじゃよ、ということを肌でわからせてあげるということ。我が家は今はまだ暖房をつけていないけれど、これからもつけないっていうわけにはいかないだろうし、これを実践するのは難しいな。どうしたもんか。
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ちょっと調べ物をしていたら、ある方のブログが出てきて、何の気なしに読んでいたら語りのうまさにひきこまれてしまい、この数日読み続けている。読み進めると書き手は闘病中で亡くなられたことを知った。不安や恐怖や悔しさや悲しみなどのありとあらゆる思いがあったろうに、文章はあっけらかんとしてすがすがしく、楽しくユーモラスで素直で聡明な、とにかくこの突き抜けた感じはどこからくるのだろうと不思議でならなかった。書き手は女性で夫と二人暮らし、血液のがんで37歳で亡くなるが、ブログにはいまの自分はとても幸せだ、と何度も書いていた。自分に言い聞かせるようでもなく、無理に思いこんでるようでもなく、本当に心底幸せだということがしみじみ伝わってきた。
よくわかる。夫と二人暮らしで、子はなく、車も持たず、自慢してまわるほど裕福でもないけど明日に困るほど貧乏でもなく、身の丈に合った暮らしができるこの日常がこの上もなくいとおしくて幸せなんだ、とそのことに自分が気づけたこと、このありがたさ。そしてその日常をちまちまと一緒に作っていけるパートナーがいることのありがたさ。
なんだかね、父の病気がわかって以来、どんどん父の具合が悪くなってきたらなおのこと、ちょっと恐れるくらいに日常の幸せがビリビリ感じられて、うーん、感謝せな、と(ここだけなぜか関西弁で)思うことがある。家族、たくさんの人、いろんなめぐりあわせ、そういうの全部に感謝せな。
病気それ自体は苦しい。大切な人が亡くなるのは悲しい。不安もあるし恐怖もあるし疲労困憊もする。いつやってくるかわからないそれは、でも誰も避けては通れない。いつもそこに行きつく。覚悟を決めなきゃ。でも覚悟ってどんなかたちをしてるんだろう。
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何日か前、手稲山(ていねやま)に雪が降った。全国のニュースでちらっとやっていた。手稲山は札幌市内にある山でスキー場もあって、体育の授業のスキーは丸一日ここでやったりする。学校の窓や家のベランダから遠くに見えたりする、市民には身近な山(のはず)だ。手稲山が白くなると、ああ冬が来るぞ冬が来るぞと前のめりに思う。そして手稲山にはじめて雪が降るのはたいてい合唱コンクールの時期で、合唱コンクールは10月の終わりにあるのだった。中学校の頃のお話。
ていねやまにゆきがふったんだよ、と相方に言うと、あ?ていねやま?と聞くから、「手稲山に雪が降る」=イコール=「合唱コンクール」の話を一通りする。ああ、思い出を語っているんだね、と締めくくられた。いや、季節の目印の話をしていたんだけどな。まあ、思い出話と言えなくもないけどさあ。
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