蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2007年12月10日(月) この頃本を読んで思うこと

急に向田邦子が読みたくなって、実家に帰ったついでに納戸から何冊か持ってきた。代わりに『富士日記 上・中・下』を置いてくる。最近は老眼で活字はねえ、と言う母が本当に読むかどうかわからないけれど、電話で話したときには少し興味を持ったようだったので。山で暮らす泰淳と百合子の境遇が、父と母に重なる。病のためか、徐々に体がいうことをきかなくなる泰淳に、文句を言ったり気遣ったり、一貫しないものの明るく懸命に支える百合子。こんな風に富士日記を読んだことは今までなかった。

やはり父の病気とそれにまつわる諸々の不安や心配が、常に心の奥底で低く鳴り響いているからに違いない。もはやどうにもならないが、考える時間が与えられただけでもよかったと思いたい。悩み苦しみ、抑えようとしても湧き上がる怖れや悲しみ、悔しさ、虚しさ、あらゆる負の感情を抱え、どこまでも衰弱していく体でなお生きていく、そのしんどさに付き合うことが少しでも父の助けになればと願う。でも、本当のところ父がどう思っているのか、わからない。核心に迫ってみたい衝動に駆られもするが、いったん言葉にすることで余計に傷つけてしまうかもしれない。結局のところ、私は聞けない。なんでもあからさまにすればよいというものでもないだろう。

10年ぶりくらいで向田邦子の『寺内貫太郎一家』を読むと、ずいぶんと理不尽なことがたくさん書かれていて、こんなの今ならセクハラとかパワハラで訴訟もんだな、昔はこれでもよかったんだな、と懐の深さやいい加減さを感じる。表面上は嫌味を言ったり殴ったりしても、本当は思いやりや愛情があったり、何かあったときには自分が責任を取るという潔さを持っていたり、どんなことがあっても守ってみせるという気概みたいなものがあるから許せるのか。つまり卑怯さは微塵もない、ということだ。この前、相方ともこんな話をしたっけな。


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