蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2006年06月25日(日) どこまでも

気に入ると(気になると?)、もうそれしか見えない。それしかしない。頭の中がそのことでいっぱいになってしまって、他のことが入る余地がないのだ。それは何についても同じで、例えば食べ物なら飽きるまで食べ続ける(これは柑橘系)。「適度に」楽しむというのができず、どこまでも突き進んでしまう。

誰かの本なら、その人が書いたものばかり読む。今もずっと須賀敦子ばかり読んでいて、『霧のむこうに住みたい』(初)、『コルシア書店の仲間たち』(再読)、『トリエステの坂道』(再読)、『地図のない道』(初)を2冊ずつほぼ同時進行で読む。中でも『トリエステの坂道』は全部読んでからまた戻って、好きなところだけ取り出して読んだりしていて、この頃いつも鞄の中に入っている。

『トリエステの坂道』には12のエッセイと1つの評論(とでも言うべきか)が載っている。ウンベルト・サバに思いをはせる表題作「トリエステの坂道」、雨が降ってもイタリアの男は傘をささない「雨のなかを走る男たち」、ハンカチを広げたくらいの家庭菜園の話「セレネッラの咲くころ」、ナタリア・ギンズブルグを訪ねた「ふるえる手」の4つが特に好きで、暗唱できるようにしようか、それとも書き写して楽しもうか、と考えは尽きない。

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 たとえどんな遠い道のりでも、乗物にはたよらないで、歩こう。それがその日、自分に課していた少ないルールのひとつだった。サバがいつも歩いていたように、私もただ歩いてみたい。幼いとき、母や若い叔母たちに連れられて歩いた神戸の町とおなじように、トリエステも背後にある山のつらなりが海近くまで迫っている地形だから、歩く、といっても、変化に富む道のりでさほど苦にはならないはずだった。地図を片手に、私はまず市の中心部をめざして坂をおりはじめた。
 なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。二十年まえの六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。イタリアにとっては文化的にも地理のうえからも、まぎれもない辺境の町であるトリエステまで来たのも、サバをもっと知りたい一念からだと自分にいい聞かせながらも、いっぽうでは、そんな自分をこころもとなく思っている。サバを理解したいのならなぜ彼自身が編集した詩集『カンツォニエーレ』をたんねんに読むことに専念しないのか。彼の詩の世界を明確に把握するためには、それしかないのではないか。実像のトリエステにあって、たぶんそこにはない詩の中の虚構をたしかめようとするのは、無意味ではないか。サバのなにを理解したくて、自分はトリエステの坂道を歩こうとしているのだろう。さまざまな思いが錯綜するなかで、押し殺せないなにかが、私をこの町に呼びよせたのだった。その≪なにか≫は、たしかにサバの生きた軌跡につながってはいるのだけれど、同時にどこかでサバを通り越して、その先にあるような気もした。トリエステをたずねないことには、その先が見えてこなかった。(須賀敦子「トリエステの坂道」より)

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どの本にも、どの話にも、結婚してわずか5年で亡くなった夫ペッピーノの存在が見え隠れする。須賀さんがこうして自分の家族や友達やイタリアについて書き始めたのは、彼女がイタリアを離れて20年くらいたってからのことだ。ただの思い出話に終わらない、小説のようにも読める美しいエッセイになるまで、これだけの時間がかかったことを頭の隅に止めて読むと、なお須賀さんの人柄が感じられる。


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