蜜白玉のひとりごと
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| 2004年05月18日(火) |
大きな手さげかばんみたいに/『ある作家の日記』 |
今日もヴァージニア・ウルフについて。私はいったい彼女の何が知りたいのだろう。
ヴァージニアは日記の中で、日記を書き続けることについて思索している。1919年4月20日にはこう書かれている。少し長いが抜粋する。
*引用はじめ* 四月二〇日(イースターの日曜日) 長い原稿を書いたあと、いつも怠惰におちいるものだが、私も今月デフォーについて第二の長い論説(リーダー)を書いたので、この日記をとり出して読んでみた。自分自身の書きものを読むとき、ひとはいつも一種のうしろめたいような熱心さで読むものだ。私の日記の乱暴ででたらめな文体は、しばしばひどく非文法的で、変える必要のある単語が目にとびつくところもあり、読むだけでいささかうんざりした。この日記をこれから先に読む自分がどんなものであろうとも、私はこれよりずっとよく書けるのだということを告げておきたい。この日記に時間をかけず、だれにもこれを見せてはいけないと自分に命令する。さて、ここで少し褒めてやってもいいだろう。この日記には性急で力強いところがあり、時には思いがけなくある問題の急所をついていることがある。しかし、もっと大切なのは、自分で読むためだけの目的でこのようにものを書く習慣は、よい訓練になるという信念が私にあるのだ。これは<文体の>結び目をゆるやかにする。ミスをおかしたりつまずいたりしたってかまうな。こんなにはやく書くのだから、対象に向かって最も直接的に、瞬間的に突進しなければならない。だから何でも手あたりしだいことばをみつけて、えらんで、インキにペンをひたすのに要る時間だけしか休むひまなく、ことばを放り出さなくてはならない。 ***
ヴァージニアの文章を読みながら思う。私は次から次へと湧き上がる思いをうまくつかまえられたことはない。何かとてもしっくりくる言葉を思いついたはずなのに。ついさっきまでは確かに私の中にその言葉があったはずなのに。私はのろのろと進んでは引き返すことを繰り返している。躊躇しているひまはない。いそいで紙に書き付けるのだ。続けて彼女は書いている。
*引用つづき* 昨年のあいだ、私のプロとしての書きものをするのが少しらくになったような気がするのだけれど、それはお茶のあとの、このくつろいだ半時間のおかげだと思う。それに、日記というものが到達しうるかも知れない何らかのかたちの影のようなものが私の前に浮かんでくるのだ。この人生のばらばらな漂流物のような素材で何をつくることができるか、そのうちに私にわかってくることがあるかも知れない。私は平生これを、もっとずっと意識的に良心的に小説の中で使っているのだけれど、その使いかた以外の利用法を発見することができるかも知れない。私は自分の日記がどんなものであって欲しいと思っているのか。何かゆるやかに編んであるもの、だけどだらしがなくはないもの。あたまに浮かぶどんな荘厳なものでも、ささいなものでも、美しいものでも、何もかも包みこんでしまうような弾力性のあるもの。何か古色蒼然たる、奥行きの深い机か、大きな手さげかばんみたいに、いちいちものをしらべずにたくさんのがらくたを中へほうりこむことができるようなものであってほしい。 ***
私はメアリー・ポピンズの大きな黒いかばんを思い浮かべる。かばんには何でも入っている。かばんよりも明らかに大きなコート掛けや美しい鏡がするすると出てくる。子どもたちが駆け寄ってかばんをのぞいてみても、中はからっぽ。どこまでも続く真っ暗な闇。話はつづく。
*引用つづき* 一年か二年経ってから戻ってきて、中にはいっているものがひとりでに分類され、精錬され一つの鋳型に融合しているのを発見したいものだ。こうした集積物にはまったくふしぎにもそういうことがおこるのだから。その鋳型は私たちの人生の光を反映するに足るだけ透明であって、しかも芸術作品の超越性をもつ、落ち着いた、しずかな化合物であって欲しい。古い日記を読んでみて考えるのだが、ここで必要な主なことは検閲者としての役割を演ずることでなく、気分のままに書くこと、また何についても書くことだ。というのは、行きあたりばったりに書くことにしたのに、書いたときには決して目につかなかったところに意味をみいだして、ふしぎな気がしたからである。 *後略*
日記をしばらくしてから読み返してみると、書いたときには気がつかなかったことや意識しなかったことが、ふいに目に飛び込んでくることがある。日記の楽しみはそこにある。私はそう頻繁に昔のものを読み返したりはしないけれど。
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