Deckard's Movie Diary
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2008年10月15日(水)  落下の王国

『落下の王国』
グラフィカルですねぇ。美しいですねぇ。初っ端からブルース・ウェーバーが撮ったカルバン・クラインのCMかと思いましたよ。全編に渡って、計算されつくした構図に生々しい描写を避ける為のスローモーションを多用しており、まるで動く写真集を観ているような気分にさせてくれます。現実のシーンでもほとんどの登場人物が映画的な佇まいを見せる中で、重要な役どころである少女アレクサンドリアだけが唯一不細工なんですね。言い方を変えると、不細工だけど、鼻をクシュクシュと何度も擦ったりして、実にリアルな子供の可愛さを振りまいています。例えばあの少女がダコタ・ファニングだったらどうだったでしょうか?おそらく、この映画の魅力は半減すると思います。アレクサンドリアの存在はカレーに於ける福神漬け、牛丼に於ける紅生姜、餡子の甘さの強調する為の塩みたいなモノです。彼女が登場する度にこの映画を観ている者は「おお、そうだった!これは動く写真集じゃないんだ!映画なんだ!」と思わせてくれるワケです。つまり、映画の中での語り部はロイですが、観客にとっての語り部は彼女なのです。話は逸れますが、同じようにグラフィカルな映像が強調されていた『HERO』は登場人物のルックスに愛嬌あるので、特にアレクサンドリアの役柄は必要ありませんでした。まぁ、ジェット・リーがアレクサンドリアという見方も出来ますが・・・・・( ̄。 ̄ )ボソ で、何が言いたかったのかと言うと、ターセムの計算されつくした演出は美しい映像や切ないストーリーだけでなく、不細工なルックスまでも含まれていたということです。さすがに世界の一流は違うなぁ・・・。そして、そのアレクサンドリアは当然の如くこの映画の観客でもあるのです。つまり、私達!映画好きなら映画の中の登場人物になりたいと思ったことは少なからずあるはずです。不細工であろうと少女アレクサンドリアが夢を見るのは当然のことでしょう。夢を見るのは人間だけに許された贅沢です。彼女が手に入れた宝物は私たちにとってそうであるように、人生を豊かにし、ある時は心の支えになるでしょう。エジプト第二の都市アレクサンドリアは嘗て“世界の結び目”と呼ばれたそうです。少女アレクサンドリアも映画の中の世界と観客を結び付けてくれたのかもしれませんね。それにしても、これだけグラフィカルな映像を駆使して描いた作品が身体を張ったコメディへのオマージュとは!一見“美”とはかけ離れた世界に位置する“ドタバタコメディ”ですが、考えてみれば人が一生懸命に頑張る姿が美しくないはずはありません!映画の中に入り込んだ少女アレクサンドリアがロイの為に頑張り、最後には登場人物としてのオーラを身につけたのも当然のことでしょう。アレクサンドリアが歓喜したエンディングはオープニングに繋がり、ドタバタコメディの美しさはループになり、その美しさは途切れることはありません。アクロバティックコメディは永遠の輝きなんでしょうね(ダイヤモンドかよ!)。

もう少しマトモな見方をすると、ロイは架空の物語をアレクサンドリアに聞かせる度に生きる希望が湧いてくるんですね。この辺りの展開が上手い!人間って、死にたい・・・と思っていても、仕方なく誰かと関わり、そこに人間ならではの想像力を働いてくると、生きてることが楽しくなってくるんですかね?っつーか、死ぬことも無いかなぁ・・・と、思えてくるんですかね?やっぱり、人間って考える葦なんですね(笑)。


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