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1969年9月10日、俳優のジョナサン・シェックが生まれました。 トム・ハンクスの監督デビュー作『すべてをあなたに』で、 リブ・タイラーの自信満々の恋人(別れちゃうけど)を演じた人です。 でも、今日の映画はこちらですけど。
キルトに綴る愛 How to Make an American Quilt 1995年アメリカ ジョセリン・ムーアハウス監督
最初に、余談ではありますが、 スコットランド地方の男性が履いている、 あのスカートのような“キルト”は、kiltという綴りだそうで、 こちらの映画のQuiltとは関係ないようです。
主演はウィノーナ・ライダーで、お得意の役って感じなのですが、 恋人との結婚問題で迷う20代の女性が、 論文書きの環境を確保するため、祖母の家に身を寄せて、 ちょっと浮気心が生じたり、 親戚の女性たちの過去の逸話に触れたりしながら、 だんだんと、自分にとってのベストやベターをつかんでいく、 まあそういうお話です。 「私は何があってもびくともしないわ〜」風の女優がやっても ちっとも伝わってこない役なので、 可憐な容姿の彼女にはぴったりというわけです。
彼女の(あんまり出て来ない)恋人役が、ダーモット・マルロニー、 浮気心をくすぐる二枚目君が、ジョナサン・シェックでした。 この映画が公開になった頃、 「ダーモットよりジョナサンの方がすてきじゃなかった?」 とインタビュアーに尋ねられ、 「現物はそうでもないのよ」 と、ウィノーナが、結構あけすけに答えていたのを覚えています。 かわいい顔、キレイ系だけの枠に自分をおさめることを潔しとせず、 露悪的に答えている感じが、ちょっと痛々しくすら思えたのですが、 こんな人だからこそ、「等身大」の役を演じるたびに、 共感を呼んだり反感を買ったりするのでしょうね。 可憐な(何度も使って恐縮ですが)容姿に似合わない気もしますが、 本当にリアルな女優さんだと思います。
で、この「勘弁してよ」な邦題ですが、 原題は「アメリカンキルトの作り方」とでもなるのでしょうか。 ウィノーナが結婚するときのお祝い(伝統)として、 彼女を取りまく年かさの女性たちが、 共同製作で大物のキルトをつくるのが軸になっています。 その女性たちを演じていたのは、エレン・バースティン、 アン・バンクロフト、ジーン・シモンズと豪華ですが、 若いころのエピソードでも、クレア・デインズ、 サマンサ・マシスといった 若手実力派の姿が見られます。 ウィノーナのあからさまな色気が皆無な水着姿が見られる、 貴重な作品でもあります。
男性とか、フェミニンなものが苦手な方だと、いい悪いというよりも、 ちょっと受け付けないという向きもあるかもしれませんが、 作品の質はかなり高いと思いますので、積極的にお勧めいたします。 人生って、いろいろ残酷なこともあるけれど、 そう悪くもないかな?と、ほのぼのとしたものが心に残りました。
些事ではありますが、ウィノーナの母親役がケート・キャプショー。 この人は、プライベートでもそうかもなと思うのですが、 映画の中で、「バンチャ(番茶)」を飲んだりします。 ウィノーナは、これを「まずい」と表現していますが、 私は「そら、入れ方が悪いのよ」と、 ビデオ相手に突っ込んでしまいました。 緑茶系そのものが苦手なのかもしれませんが、 非常に失礼ながら、アメリカ人で 「お茶の入れ方がうまい」人は少なそう。 コーヒーならいいですけどね。
2005年7月26日補筆 4年前、上記の文章を書いた私にとっては、 アメリカンキルトというと、 せいぜい「アントステラ」のお店にあるような タペストリーのイメージしかなく、 興味・関心ともいえない程度の目しか向けておりませんでした。 失礼な話ですが、およそカントリー調のもの全般に、 少々こっぱずかしさを覚えていたんだと思います。
そして今現在ですが。 手芸店やヤフーオークションで 割と無目的にパッチワーク用のカットクロスやボタンを買い、 嬉々として運針作業に勤しんでおります。 何かを形づくりたいというよりも、 ただただひたすら、針と糸の作業が好きなのです。 2001年当時、まだ1歳だった次女は5歳になり、 私の趣味の一番の理解者かもしれない立場です。
そのような環境の中、キルトビーなる言葉も覚えました。 (キルトビーのビーはbeeミツバチです。 わいわいおしゃべりしながら運針する老若問わず大勢の女性の姿が 容易に想像できる、何とも愉快な表現です) 映画「キルトに綴る愛」の作中にも、 もちろんその描写がもろ出てきますし、 用語としても使われていたかもしれないのですが、 私の頭には、言葉として定着しておりませんでした。 また、どんな小さな端切れでも、素材として大切に扱うこと、 デザインのパターンはいろいろあれど、 非常に多彩で柔軟な表現方法を持った れっきとしたアートの側面も持っているということが 何となく理解できるようになりました。
今ならば、また違った観点でこの映画を楽しめそうな気がします。
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