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二人のはじまり 8■2002年03月28日(木)
前の日は公園を歩き、その翌日は夜に生徒の指導だった。
手の自傷があって以来、僕は彼女のことばかり考えていた。
玄関のインターフォンを鳴らすと、しばらくして生徒が出迎えた。
部屋にはいると、生徒はこたつに入り、たばこを吸った。
3月も終わろうとしている時期に、こたつは似合わなくなっていた。
その日の指導は、生徒が右手を使えないために、進みがゆっくりだった。
生徒は時折、折れた右手を確認していた。
「骨を固定するためにね、今日、病院で針金を刺されたの。痛いよお。」
包帯の隙間から見えた、アルミ製のギプスが放つ気味の悪い光を僕は忘れられない。
指導が終わった後。
「先生、告白した?」
生徒は、僕が気にしていると言った元彼女のことを持ち出した。
してない。ここ数日はそんな気分じゃいられなかったし。
「なんで?私?」
まあ、そうだね。
「なんで、そんなに気にするの?他人事じゃん。」
気になることは気になるんだよ。
「じゃあ、好き?私のこと。」
いや、そうでもない。
「ああもう、じれったいなあ。じゃ、何、私は先生に振られたってこと?」 振られたって…
「だってそう言うことじゃない。だって、先生、私のこと好きじゃないんでしょう?」
生徒としては、好きだよ。
「もういい。もうお別れだね。私、振られた人には二度と会わない主義だから。帰って。もう来ないで。」
生徒の目が本気で怒っていた。声がいつもと違う低いトーンになっていた。
しかしだな…
「帰って!帰れ!」
生徒は座りながら、僕を腕で押し出そうとした。
けれど、180センチを超える僕の体に対して、その試みがむだと分かると生徒はうつむいて黙った。
おい。
僕が問いかけても、生徒は返事をしなかった。
ただ、生徒の表情から感情が消えてゆくように見えた。
唐突に、生徒は包帯の結び目に手を掛け、包帯をほどき始めた。
おい、やめなさい。
「やだ。」
やだ、じゃない。そんなことしちゃだめだ。
「いい。私の手なんだから私の勝手でいいでしょ。」
包帯はどんどん解かれてゆく。それでも患部である薬指と小指の付け根はまだ見えなかった。
よくない。やめろ!
とっさに僕は両手で彼女の両腕をつかみ、包帯から左手を離させた。
「離して!離して!離せ!大きい声出すよ。」
止めるか?
「分かった、止める。止めるから離して。痛い。」
僕は彼女の両手首をいやというほど握っていた。
彼女が痛がったので、僕は手を離した。
生徒の両手首には、僕の手の跡がはっきりと赤く残っていた。
僕は我に返って、その力の入れ具合に驚いた。
僕は目のあたりを片手で覆うようにしてこたつのテーブルに頬杖をついた。
心臓が動悸していた。
しばらく、二人も何も言わず、何もせずに、緊張が収まってゆくのを待った。
生徒はほどけた包帯を巻き直し始めた。
僕は言った。
どうして、そんなことする?怪我がひどくなるじゃないか。
「いいの、見たいの。自分がどれだけやったか。それに見せたいの。先生に。」
どうして?
「いいから。見せたかったの。ねえ、上手く巻けないんだけど。」
そう言って、生徒は右手を差し出した。
僕は、巻くには巻いたが、やり方を知らないので、包帯はあまりに緩かった。
生徒は出来映えの悪さをひとしきりののしった後、包帯のたわみの間から患部をのぞき込んだ。
「ほら、すごい。見て見て。」
僕も見た。指の付け根にはワイヤを入れた切り口、青あざ、そしていくつかの傷があった。
物で叩いた結果、そこは潰れたようになっていた。
こんなになるまで叩いたんだな。
「人間の体って、意外と丈夫だよね。」
もう、やっちゃいけない。分かった?
「はいはい、分かった分かった。いちいちうるさいなあ、親じゃないんだから。」
23時を過ぎ、僕は帰り支度をしていると、生徒が言った。
「ね、先生、キスしよう。」
え?
「ねえ、キス。」
馬鹿言うな。
僕は笑って彼女の部屋を出、明るく照らされた廊下を歩き始めた。
「先生。」
生徒はそう言って廊下の証明を消すと、僕の前につつつと寄ってきて目を閉じた。
小さな唇を僕に向けて。
はいはい。またな。
僕は生徒の肩を叩いて階段へ向かった。
「なんだ、つまんないの。」
振り返ると、ふてくされ気味で生徒は僕の後を追ってきた。
挨拶を交わし外へ出、僕は彼女の部屋を見やってから帰った。
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