Experiences in UK
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2005年11月07日(月) |
第107-117週 2005.8.22-11.7 ハロウィン、「ブレイブ・ハート」 |
(ガイ・フォークス) 先週末、毎年恒例のガイ・フォークス・ナイトで、市内の方々で打ち上げ花火を見ることができました。我々は、ロンドン数多ある花火大会の中でも有数の規模と定評のバタシー・パーク(ピンク・フロイドの「豚」で有名なパタシー発電所の隣)花火大会を鑑賞に出かけました。 「有数の規模」と言っても、毎晩東京ディズニー・ランドで行われている花火と同じ程度の花火がもう少し長い時間にわたって打ち上げられる程度です(花火の技術は明らかに日本の方が上だと思います)。それでも、テムズ河を背景とした巨大花火はなかなかいいものでした。
(ハロウィン) 先月31日(月曜)はハロウィンということで、帰宅時にバスから街を眺めていると、通りをうろついている不気味な格好のこどもたちが目につきました。スーパーなどでもカボチャが大々的に売り出されていました。お化けに仮装したこどもたちがそこら辺の家々を訪ね歩いて、“Trick or treat?”とお菓子をねだるという年中行事です。
うちのこどもたちも、近所の友人達と徒党を組んでハロウィン行列に出かけていたようです。妻からきいた当地ハロウィン事情は、以下の通りです。個人的にはかなり「へぇ〜」という感じでした。 まず、作法に則った正しい安全なハロウィン行列の仕方は、第一に親が同伴すること、第二にアポ取りをすることだそうです。ティーン・エイジャーの悪ガキがハロウィンにかこつけて狼藉をはたらいたりするケースもあるらしく、親の段取りのもとで行うのがあるべき姿であると(とくに年少者の場合)。 そして、実は純粋な英国人の中には、ガキに付き合うのが面倒なのか、アポ取りの段階で「うちはやってないから」と断られるケースがままあるそうです。結局おじゃましたのは外国人の家庭(インド、ロシア、日本、韓国など)が多かったようです。
(「オーディション」) 30日(日曜)の深夜、当地のテレビ(チャンネル4)で日本の映画が放映されていました。テレビ欄に記載されていた村上龍原作という説明に少しひかれたのと、当地で日本映画を見るのも面白いと思ったことから(初体験)、軽い気持ちで見てみることにしました。 こちらのテレビで放映される映画やドラマを視聴するのは、英語字幕(subtitle)を表示させながらであっても筋を追うだけでそれなりに疲れます。今回のような耳から入る日本語で筋を理解しつつ、ついでに英語字幕に目を走らせるというスタイルの映画鑑賞は、やはり革命的に楽な気分がしました。
それは良かったのですが、事前の知識が全くなかった映画の中身が、想定外のエグサだったのにはたじろぐとともに、英国民がどんな気分で見ているのか気になりました。 「オーディション」という題名のその映画は、サイコ・サスペンスと呼ばれるジャンルのものなのでしょうが、題名から連想される陽性な印象とはまったく裏腹に、フィジカルなエグサまでたっぷり伴ったとてつもなく陰性のホラー映画で、例えば映画「リング」などが大衆向けホラー映画だとすると、こちらはマニア向けの本格ホラー映画と言えるかもしれません。 後で調べると、日本ではR指定だったそうです。当然でしょう。
英国において邦画といえば、一般的に絶大なる高評価を得ているミヤザキ・アニメか、ちょっとマニアックな線でタケシ・キタノが有名です。 想像するに、「リング」の世界的なヒット以降、モダン・ジャパニーズ・ホラーも一定の評判を得ており、今回の放映もその流れのなかでのものだったのでしょう。聞いたところでは、「オーディション」は海外でかなり評価の高い映画だったそうです。
(「ブレイブ・ハート」) 映画つながりの話題ということで。 先日、(八月のスコットランド旅行の後になってしまったのですが)遅ればせながら映画「ブレイブ・ハート」をDVDで視聴しました。スコットランド史上で最大の英雄であるウィリアム・ウォレス率いるスコットランド民衆とスコットランド制圧を企図するイングランド軍との間のスコットランド独立をかけた戦いを描いた歴史大作です(1300年前後の話)。 スコティッシュの思いがこもった「熱い」映画でした。スコットランド出身のゴードン・ブラウン蔵相も、もっとも好きな映画として「ブレイブ・ハート」をあげているそうです。
日本では、中央と地方の間の過酷な勢力争いの歴史はあまりないと思うのですが、比較的似た構図の史実としては、平安時代後期に奥州の有力者であった安倍氏と朝廷側(源頼義・義家親子)との争いである前九年の役(1051〜1062年)が想起されます。敗れ去った安部氏側の英雄で、最後に処刑された藤原経清がウォレスに該当するように思えます。 ただし、日本の場合、経清の子である清衡が後三年の役(1083年)で勝ち残り、奥州平泉に藤原三代の理想郷を建設するというハッピーな「続き」があったわけですが、スコットランド史の場合は必ずしもそのような展開をみせませんでした。イングランドによって処刑されたウォレスの後に続いたロバート王がスコットランド独立を正式に勝ち取ったものの、これはイングランド側の敵失によるところが大で、その後のスコットランド王家の歴史はお世辞にも立派とは言いがたいものとなります。
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